トロッコ問題問題

 大学に入りたての頃に「倫理」の問題について英語で議論する授業があった。その問題は一般に「トロッコ問題」と呼ばれているものだった。それはだいたい、次のように説明される。
 「制御を失い暴走する路面電車。このままでは線路上にいる5人の人間がひき殺されてしまう。ただしいま、あなたの手元には、線路のポイントを切り替えることのできるレバーがある。そのレバーを引けば、路面電車が別の線路に入り、当初の5人を助けることができる。しかしその別の線路上には1人の人間がいて、レバーを引いた場合、今度はその人がひき殺されてしまう。さて、あなたは手元のレバーを引くべきか否か?」。色んなバリエーションがあるのだけど、まあたぶんだいたいこんな感じ。
 1人の命と5人の命だと5人の命を助けたほうが良い、したがってレバーを引くべきであると考える立場と、いついかなる状況であっても自分の意志が介在した殺人は避けるべきである、したがってレバーを引くべきではないと考える立場の、2つに分かれて議論しましょうという感じの授業だった。
 英語弱者の俺は言わずもがな、英語が上手なクラスメイトたちですら、さすがにこのテーマについて議論を深めていくのは難しいと感じたらしく、お決まりの、紋切り型の主張を互いに交し合っているうちに終了時刻が訪れ、何とも言えないやるせなさとともに、いつものメンバーと食堂に向かうことになった。
 そこである人が「さっきの授業では無理やり立場に分かれて議論することになったから、ああ言う感じになったのだけど、私はどっちも間違ってると思っている。その時々で立場って変わるような気がするし、自分の立場はこれ!って強く主張することに違和感があるんよね、、、。どっちを選んでも何かが違うというか」と言った。
 すると意外なことに、その場にいた他の人たちもけっこう同じような思いを抱えていたらしく、トロッコ問題の問題の立て方がいかにして間違っているのかについての、二次会的な議論が開催された。
 それは本当に昼ごはんを食べながら話すようなテーマなのか。諸説あるが、いずれにしても私は、その日のことをとても鋭く記憶している。その理由はたんに、これまでの私の人生で昼ごはんちゅうに、そんなテーマについて議論する経験がなかったからというのもある。だけどそれに加えて、ある問題の体系の内部で予定調和的にあれこれ言い合うのではなく、ある問題の立て方それ自体に疑いの目を向けて議論していくことは、こんなにも面白いことなのか!と、素直に思ったからでもあった。
 さっきまでの定型的なやり取りの応酬はどこへ行ったのか、というぐらいにさまざまな観点から「トロッコ問題の前提の、そもそもの間違い」についての、いきいきとした文句が飛び交いあう。そのさまを見た私は「この全体的な流暢さの理由は、やはり英語よりも日本語のほうが、そこで話せる内容の密度が高くなるからなのか、それとも授業ではそれぞれが半ば無意識的に、自らの役割を引き受けてしまうけれども、このようなプライベートな状況では、みなそのような役割から解放されることで自由に気軽に、話したいことを話せるようになるからなのか。まあ、両方か」などと、つまらん内言をつぶやいていたものである。
 その後、いろいろ本を読んでいく中で、あの日の我々の問題意識は、それほど間違ったものではなかったのだという気づきを得るようになった。国内外を問わず、頭の良い人たちが「トロッコ問題はその問題の立て方それ自体に問題がある」ということを、さまざまな仕方で論じていたからである。その、言わば「トロッコ問題問題」とでも呼べるような問題を論じている本のなかで、私が個人的に最も好きだと思ったのが、古田徹也さんの『それは私がしたことなのかー行為の哲学入門』という本だった。

 その本の「はじめに」で古田さんは、実に印象的な問題を立てる。あなたは車を運転している。すると突然、子どもが道路を飛び出してくる。あなたは急ブレーキを踏むが間に合わず、その子どもと衝突してしまう。その結果その子どもは命を落としてしまい、あなたは強烈な自責の念に駆られる。「なんてことをしてしまったのだ」と。
 そんなあなたの落ち込みぶりを見たあなたの友人が「今回の事故はお前の不注意が原因というわけではない。お前は悪くない。そんなに自分を責めなくて良い」と声をかけてくれる。実際その事故は、運転手がどれだけ注意深く運転していたとしても、避けることができなかったタイプのものであると考えられていた。その意味で確かに、あなたは悪くない。
 けれどもだからと言って、その友人の声かけを受けたあなたが途端に「そうだよな、私が悪いわけではないよな!」と態度を豹変させた場合、その友人はあなたに何を思うか。おそらく、その友人はあなたに対して、明確な不信感を抱いてしまうだろう。私たちはその友人の心中のあり方を、容易に想像することができる。
 しかし、改めて考えてみると、この一連のやり取りは果たして何を意味しているのだろうか。私たちはどうして、直接的に自分が悪いわけではない事故の責任をもっぱら「自分の責任」として抱え込み、いつまでも後悔し続けてしまうのか。それは合理的な反応と呼べるのだろうか。そしてそのようなある種の「不合理的」な後悔の念をさっぱり持たない「合理的」な人に対して、私たちが抱いてしまう不信感の根拠とは、いったい何なのか?というより、そもそも人間にとって「後悔」とはいったい何なのか?
 このような問題意識に沿って展開していく本書は最後に「トロッコ問題はその問題の立て方自体が間違っているということ」つまり「トロッコ問題問題」を指摘することで、その探求を終える。
 古田さんは、トロッコ問題は複雑な人間の内面を限りなく薄っぺらい2つの立場に還元してしまうという点で、人間の現実を正しくとらえきれていないと考える。そして、2つの立場を強引に用意して、そのどちらが正しいか?などというテーマについて議論することにさしたる重要性はないと語ったあとで、次のように言う。
 
 「こうした極限的事例を提示されて我々が容易に判断を下せずジレンマを感じるということ、すなわち、躊躇し、葛藤するということそれ自体は、我々に本質的な事柄を語っているように思われる。我々が倫理的な歪みを見て取り、不信を抱くとすれば、自分の行為によって助かる人数を計算して何の躊躇もなく冷静にレバーを引く人(あるいは引かない人)に対してだろうし、また、レバーを引いたこと(あるいは引かなかったこと)に対していささかも後ろめたさを感じない人に対してだろう。」(p256)

 古田さんのご専門は「倫理学」だが、古田さんは従来の倫理学がある選択の「正しさ」の根拠ばかりを追い求めてきたことに反省の意識を向け、むしろ来るべき倫理学は、私たちが何らかの選択をしたときにどうしようもなく感じてしまう「後悔」の念、ある種の割り切れなさのようなものに対してこそ、はっきり目を向けるべきであると語る。
 本の中でJ・M・クッツェー『動物のいのち』という、個人的にも大好きな小説について言及されている箇所にもたいへん感銘を受けた。主人公はとある大学で「動物のいのち」をテーマに講演し、私たち人間がふだんからいかに動物のいのちを無慈悲に奪うことで生き延びているか、その怒り、悲しみ、割り切れなさを、聴衆にぶつける。すると聴衆の1人が、その主人公のファッションに注目して「あなたが身につけているものをつくるためにも、動物の命が奪われているのではないのか」と指摘する。そして「あなたは何を主張しているのか?どう解決するべきだというのか?」と問いつめる。主人公は返す言葉が見つからず、1人孤独に悩み、苦しむ。
 この小説については、さまざまな分野の高名なる専門家たちがコメントを寄せているらしいが、古田さんによればそのいずれもが、日々後悔を背負って生きている主人公の割り切れない内面については、目を向けようとしていない。「動物倫理」や「異なる倫理観の衝突」などの大きなテーマを提示するための舞台装置、つまり一種の「役割」としてしか、その主人公を見ようとしていない。
 古田さんはあくまでも、生きている人間のことを考えようとしている。党派的な従来の倫理学は、この人間存在の位相を捉えそこなう。個々人を平べったい「役割」として見るのではなくて、その心の奥のほうへ、深く、恐れをなしながら入っていくのでなければ、人間の「倫理」の問題を、正確に理解することはできないのだと、古田さんは言おうとしている。

 古田さんの人間観は、言ってみれば「後悔の念を絶えず感じ続ける人間」のことを想定しているように思う。後悔の念にこそ真の倫理的問題が潜んでいるのであり、「正しい選択」だけを追い求める倫理学の在り方は、その後悔のすがたを見えなくしてしまう。消してしまう。それゆえ私たちは「後悔」を決して手放すべきではないのだ、と。
 しかし私たちはいま、「後悔」を手放しつつあるのではないか。私たちは日々何かを選択するが、自分自身で何かを選択した以上は、その選択を後悔するべきではないという考え方が、支配的になりつつあるような気がしてならない。
 その考え方の裏を返せば、もし過去の選択を否定するのならば、その選択を文字通り全否定しなければならない、ということにもなる。ほんっとうに、こころの底から後悔している、~するべきではなったと、過剰に、オーバーに、ひとに懇々と説明するようにして、自らの選択がいかに間違っていたかについての、小さな会見が、開かれなければならない。そのようなゼロヒャクの論理に従って生きていく中で、私たちの一部は適切な「後悔」のしかたを、手放していっている。
 いま、私たちは「選択」や「決断」を迫られるばかりで、それらの文化に慣れすぎたせいで、その逆の「後悔」や「過去の振り返り」のしかたを、忘れつつあるのかもしれない。
 ふつう、私たちは「主体的」に生きるべきだと言われる。そして選択や決断は、主体性の条件として数えられる。自分自身で何かを選択せよ!決断せよ!それこそが我々の主体性を支えているのだ、と。
 しかし同時に、私たちが真に主体として生きるためには、それらに「後悔」の能力をも、つけ加える必要があるのではないか。自分の選択をクールに見つめ直した時、その選択の正当性が崩れてしまうから、いまの自分が間違えていることを認めたくないから、ただそれだけの理由で、自らの手元にある後悔の契機を手放すべきではないと私は思う。
 私たちの全体的な、後悔からの退却。後悔することの難しさ。そしてその中でもとりわけ難しい「後悔」が「母になったことへの後悔」なのではないかと思う。

 最近、オルナ・ドナート『母親になって後悔してる』を読んで、そう思った。「母親になって後悔してる」と思っている人たちへのインタビューをもとにした本。母親自身が「母親になって後悔してる」と言うことは、目の前の子どもの存在を否定するというメタメッセージを含んでしまう。だからそんなことは、たとえ思ったとしても言えない。当然、言えないことは周りに伝わらない。その結果、母親であることや子供をもつことは、とにもかくにも素晴らしいものなのだという共通了解が、いつまでも守られ続けられることになる。
 しかしその共通了解は、現実の確かな反映とは言えない。本のインタビューの中で印象的だったのが「母親になったことを後悔し、それを周りに表明することと、目の前の子どもを心底愛しているという態度は両立する」と語っていた人のこと。そのような当事者の内面の複雑さを無視し「母親になって後悔してる」という言明を「ではお前はわが子を愛していないというのか」と短絡させる私たちの軽率さ、頭の悪さを、とことん痛感させられた読書体験だった。
 著者であるドナートさんは本の最後で「後悔」の能力と「主体性」を結び付ける議論を展開する。いま母には主体性がない。なぜなら母は「後悔してはならない存在」とみなされているから。それは主体ではなく「役割」と呼ばれるべきものだと、ドナートさんは述べる。
 ある人に後悔できなくさせる圧力を与えることは、その人を単なる役割として見ることだ。主体が主体として生きることには、ある選択をし、決断し、その内容を振り返る主体には、「後悔」が付きまとうことがふつうだ。あえてうかつな表現を用いるとすれば、それが「自然」だ。子どもを持つこと、母になることについて、誰もが後悔しておらず、誰もが100%良かったと感じている世界は、どうにも私には奇妙で、薄気味の悪いものとして感じられる。不自然に感じられる。そんなはずがない。これほどまでに価値観が多様化した世界において、その1点だけで、なぜか意見が一致するなんてことが、あるはずないではないか、と。
 
 役割から解放された個人の主体性を考えること。あまりにもたくさんの変数に囲まれながらも、私という細い糸をかろうじて保ち続けている人間の、豊かで荒れはてた内面を見つめ続けること。矛盾し絡まり合った人間の謎をなんらかの「立場」へと、「役割」へと切り詰めていくのではなくて、その矛盾そのものを考える方法や、表現してくれる言葉を掘り当てる努力を、決してやめないこと。トロッコ問題的なものには、こういう問題意識が欠落している。トロッコ問題に限らずだが、ある問題系を設定した時にそこから零れ落ちる人間の複雑さに思いを寄せることは、それ自体が、過去の選択によって失われたものに思いを寄せるという「後悔」の能力の一変形であると、言うことができるのではないか。そんな気がしている。
 

 
 
 


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