売られた喧嘩を買ったまで
去年の年末と今年の年始、たてつづけに人と会い、お酒を飲み、その中にはろくな睡眠がとれなかった日も含まれており、その結果、すべて自分のせいではあるのだが、2024年が始まった直後のある日、私の心と体は一日中、完全おやすみ充電モードへと、突入することになった。
こういう時に私がとる行動パターンの中の1つに海外ドラマの24を観るというものがある。合計で8つのシーズンから成り、そのうちいくつかのシーズンについては家にDVDがあり、いつもはそれらを繰り返し観ているのだが、今回はそうではない別のシーズンをいまいちど観たい、しかしかと言って昔のように、TSUTAYAまでわざわざ借りに行くのも面倒である、はてどうしたものかと思い悩んでいる時にふと、私の脳裏に「サブスク」の4文字が浮かび上がり、「これだ!!」という喜ばしい気持ちに動かされるまま、近所のローソンでNetflixのプリペイドカードを購入し、今日は思う存分24を観てやろうと、もろもろの準備をし始めた。
どうしてプリペイドカードか?端的な理由を申し上げるとすれば、それは、私が私自身の事務処理能力の無さを、誰よりも良く知っているから、ということになるだろう。
いつかの日経新聞のコラムを思い出す。いかにしてサブスクによる膨大なコンテンツの提供が、あの法外な安さでもって成立しているというのか?この問いに対するそのコラムの答えは「それは、いったんサブスクに登録した多くの事務処理能力の無い利用者が、たとえもうそのサブスクを大して利用しなくなっていたとしても、いつまでも変わることなく、本人も特に気にすることなく、毎月バンバンお金を落とし続けており、そのことがサービス側にとって、大きな収益になっているから」という残酷極まりないものだった。
そして私は私という人間が、極端に事務処理能力の低い人間であることを知っている。この先自分の口座から、無駄なお金が出ていくことを防ぐ方法、つまりプリペイドカードを用いることによって、効率的で快適なサブスクライフを!!それが、私が近くのコンビニでプリペイドカード(2000円)を購入し、Netflixを利用しようと考えた理由だった。
Netflixのアプリをインストールしログインを終えた。ウキウキしながら「24」で検索。出ない。それならば、と「twentieth four」で検索。出ない。まさか。
24が観れるサブスクはNetflixではなくDisney+だった。昔、何かの情報で24が観れるサブスクはNetflixであると見た覚えがあったのだが。自分の記憶力の無さを、そして事前の確認を怠った事務処理能力の無さを、改めて呪った。
やむをえない。払った2000円はもう返ってこない。せっかくならばこれを機に、普段は観ない映画やドラマをいくつか観てみよう。知り合いに連絡をし、Netflixで観るべき作品が何かを尋ねてみた。
質問が抽象的過ぎると言われた。確かに私も「オススメの本教えて!」と誰かに問われれば、その人と同じような返事をしてしまうだろう。つくづく私はエゴイストなのだろうなと思った。
かと言って、どういうジャンルの作品が好きなのかと問われても、答えに窮してしまうのもまた事実である。これまでに自分が面白いと思った作品たちに、何か共通する要素があっただろうかと考えてみても、やはりよく分からないままだった。
「その24ってドラマはどういう話なの」とそいつは訊く。私は一連のあらすじを説明した。するとそいつは「13の理由」というドラマを勧めてくれた。「なんでそれなん」と私が訊き返すとそいつは「うーん、復讐系の話だからかな。さっきの話聞いていて、24って復讐の話なんかなと思って」と答えた。適当か。まあでも、そうかもしれない。24というドラマは、復讐のドラマなのかもしれない。そして私にはどうも、復讐というテーマに心惹かれる傾向が、あるのかもしれない。そういうことを考えた。
私はかつて熱心なジャンプ読者だった。その中でも特にNARUTOとBLEACHを愛読していた。私が最初に復讐の問題を深く考え始めたのは、NARUTOのとある場面に触発されたことが、きっかけではなかったかと思う。
主人公のナルトにはサスケという親友がいる。物語の中盤、サスケは自らの一族を皆殺しにした故郷の上層部への復讐を決意する。その計画に巻き込まれるかたちで、キラービーという人物がサスケによって殺されてしまう。その事実を知ったキラービーの兄は激昂し、サスケへの復讐を決意する。親友であるサスケを殺されたくないナルトは、キラービーの兄のもとへ向かい、サスケへの復讐をやめてくれるよう直談判する。復讐は何も生まない。サスケが悪いことをしたのは分かる。その上であなた達には、なんとかここで踏みとどまってほしいのだ、と。
しかし、ナルトの決死の訴えが、キラービーの兄に届くことはなかった。そして最後、キラービーの兄は「ワシ達はサスケを始末する。その後お前らが踏みとどまれ!!」と言う。そりゃそうなるよなあ、と私は思った。「ぐうの音も出ない」というやつであった。
NARUTOを熱心に読んでいた頃、私は思春期の真っ最中であった。思春期とは何か。私の考えでは、それはイキリ期間のことである。例に漏れず私もイキリにイキリ散らかしていた。具体的に言えば「売られた喧嘩は買う」が、当時の私のモットーだった。ダサすぎる。
実際、自分や自分の周りの大切な人を傷つけてきたやつに対しては、徹底的な報復をかましてやろうと考え、さらにはそれを実行していたという恐るべき時期があった。そのせいで、具体的に誰かを深く傷つけてしまったこともある。詳細は墓場まで持っていくべきものなので、ここでは言えないが。
「売られた喧嘩は買う」というモットーの何が問題か。第一にイキリ散らかしているという問題、第二にダサいという問題、第三に、「売られた喧嘩」の値段と「買う喧嘩」の値段が等価ではない、つまり釣り合っていないことが多い、という問題が挙げられる。
例えば私が誰かから、ほんのちょっとした嫌がらせを受けたとする。心底腹を立てた私はその人に、徹底的な嫌がらせをしてやろうと考え、実行する。内心ではうすうす、この報復はさすがにやりすぎなのではないかと思いつつ、しかし以下のような釈明をもって、その不安を鎮めようとするだろう。たとえほんのちょっとだろうが嫌がらせは嫌がらせなのであり、しかも先にしかけてきたのは向こうのほうではないか。私は単に、売られた喧嘩を買ったまでだ、と。
多くの場合「売られた喧嘩を買おうとする」人は「売られた喧嘩の値段」を見ようとしない。最初、その喧嘩がどれくらいの値段だったのかは全く気にせず、法外な値段で、イキリ散らかしたままで、その喧嘩を買おうとするものだ。
最初に喧嘩を売ってきたのはむこうだと思い、そしてそのことを免罪符とした、相手への、容赦のない反撃。正当化された暴力の、徹底的な行使。「売られた喧嘩を買う」人にとって最も大事なのはおそらく、「その喧嘩の値段がいくらか」を知ることではなく、「最初に喧嘩を売ってきたのはむこうだ」という事実を確認することである。その確認を済ますことで初めてその人は、安心して何の遠慮もなく相手への報復に、打って出ることができるようになるから。
「買う」立場にいる人の、更なるたちの悪さ。それは、買う喧嘩と売られた喧嘩との間に「等価交換」の関係が成り立っていることを「買う」立場の人は決して疑おうとしない、ということである。どういうことだろうか。
柄谷行人さんはかつて『探求Ⅰ』という本の中で、商品を「売る」行為と、それを貨幣で「買う」行為による等価交換の関係を「命がけの飛躍」という言葉で表現した。
私たちはふつう、商品の価値、つまり値段を、その商品に内在しているものであると考える。例えば、いま私が欲しいと思っている10000円の本があるとして、その本の値段が10000円なのはなぜだろうか。それは、その本自体に10000円ぶんの価値が内在しているからである。値段とは商品それ自体の価値の、透明な表現にすぎない。
柄谷さんはそういう常識的な見方に対して否をとなえる。商品の値段とはその商品の内在的な価値としてあるのではない。そうではなく、商品の値段とはその商品が実際に「買われた」瞬間に初めて遡行的に、決定されるものなのだ。そのことを逆に言えば、その商品の値段、価値は、その商品が買われるその瞬間まで、決して定められないということを意味する。
私たちは商品を買う。その瞬間に、その商品の値段は遡行的に決定される。その瞬間に、等価交換という幻想が再構成される。ふつうに考えて、明らかにおかしな値段をしている10000円の本でも、それを買う人さえ現れれば、それに対して10000円というおかしな額のお金を支払う人さえ現れれば、その瞬間、両者には等価交換の関係が「実は」あったのだということが、後付け的に、結果論的に、認められることになるのである。
そしてそれは、逆もしかり。つまり、10000円の本を売る人に対して「これを何とか100円で売ってくれ」と頼み、どういう理由によるものかは分からないが、もしその頼みが受け入れられることになれば、その本の価値は「実は」最初から、100円だったと考えることができるのだ。元来、商品の価値、値段の設定とはそのくらいに、不安定なものだったのかもしれない。
そこで柄谷さんが言いたかったのは、商品売買における「買う」立場の優位性である。「買う」立場の人は「売る」立場の人と比べて、必ず遅れてやってくる。一見、先に値段を提示できる「売る」立場のほうが、優位な立場にあるように見える。しかし「売る」立場の人は、手元にある商品の価値がどのくらいのものなのかを、その段階で知ることができない。この商品が本当に10000円の価値を有するのかどうかは分からない。不安でたまらない。ひょっとするとこの商品はこのまま、何の価値もないガラクタとして、廃棄されてしまうかもしれない。
その商品が商品としてのアイデンティティを獲得し、正式にその値段が確定されるのは、「買う」立場の人がその商品を買った、まさにその瞬間である。商品の価値とは、その商品が売りに出された際の値段のことではなく、その商品が買われた際の値段のことなのだ。そして商品の価値と商品の値段は「等価」なものであったということも同時に判明する。等価交換とは、「買う」立場の存在と行為によって、初めて成立する営みなのである。
売られた喧嘩の値段は誰かがその喧嘩を買った瞬間、遡行的に決定される。そして売られた喧嘩の値段と買われた喧嘩の値段が「等価」であったという再解釈が与えられる。「売られた喧嘩を買ったまで」における「買う」立場の優位性とは、言い換えると、もともと危ういバランスの上に成り立っていた喧嘩の価値を強引に決定し、それを「等価交換」による取引であると後から言いのけることのできるその偽善性、そして暴力性のことでもあるのだ。
かつての私はジャンプを含めた漫画雑誌の愛読者だった。今の私は文芸誌・論壇誌の愛読者である。今月の『現代思想』という論壇誌に掲載されていた三牧聖子さんの「戦争のない世界は可能か?ー目標を正しく設定するために」という論考がとても刺激的だった。
19世紀まで「戦争」は政治的な交渉の延長に位置するものであると考えられていた。合法的なものであると考えられていた。けれども20世紀に2度の世界大戦が勃発したことで「戦争」の観念が見直され始める。無制限の権力の行使としての戦争に、さまざまな規制が加えられることになる。戦争は違法行為であるという国際的なコンセンサスが、徐々に形成されていく。
ただし、全ての戦争が違法とみなされるようになったわけではなかった。「自衛」という目的に則る戦争は「しょうがないもの」として、例外的に許容されたからである。自分の身を自分で守るための武力行使は禁止してはならないという「常識」が、その例外の在り方を後押ししたのだろう。
しかしその「常識」にこそ、何かの罠があったのだとすれば?三牧さんは言う。古くは日本による満州侵攻の口実に始まり、さらには2001年の9.11のテロに対するアメリカの徹底的な報復、そして言うまでもなく、ここ数年に起こった2度の戦争・虐殺、すべての悲劇に共通するのは、この「自衛」概念の乱用である。歴史を振り返ってみて、数多くの人の命を奪ってきたのは「テロ」による被害というよりむしろ、「テロへの報復」による被害のほうだったのではないか。「自衛のため」という正論は今や、その報復を正当化するための詭弁へと、堕落してしまっているのではないか。
私たちは「自衛」の意味する範囲をよく知らないままに、なんとなく「自衛のための戦争」は例外的に許容されると言い続け、信じ続けてきた。その結果、現実を正しくとらえるための認識や言葉遣いの方法に混乱が生じてしまっている。いまいちど「目標」を、正しく設定しなおさなければならない。
個人個人のレベルで見ても、喧嘩の当事者はだいたいにおいてお互いが「先にしかけてきたのはそっち」という認識を持っている。そして同時に「そっちが先にしかけてきたのだから、こっちがやり返したとしても問題ないでしょう」という認識も。私たちの世界はそういう認識を正当化してくれる言葉であふれている。正当防衛、自衛のため、売られた喧嘩を買ったまで、やられたらやり返す、等々…。
誰もが売る立場になることを避けている。先制攻撃を避けている。加害者になること避けている。「テロリスト」と呼ばれることを避けている。そのこと自体はむろん良い。私だって、それらを避けて生きていきたいと思っているから。
問題は、ではかと言って、買う立場であれば、自衛のためであれば、被害者であれば、「正義」の陣営であれば、いかなる報復や反撃であっても許容されるのか、正当化されるのか、ということになるのだと思う。
24を含めた「復讐」の話は、いつもそういうことについて深く深く、考えさせてくれる。誰かともめた時に「先にしかけてきたのは向こうだから」「売られた喧嘩を買ったまでよ」と半ば自動的に、無意識的に思ってしまう自分自身の弱さ、さもしさを正確に直視し、それらが厳密にどういう動機に基づいてしまっているのかを考えるところから、始めてみたいと思う。
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