長いものにごまかされる

 長編小説がどうして素晴らしいのかと言えば、それは読むのに時間がかかるから。文字通り長い。どれだけ頭の良い人であっても、少なくない時間と労力をかけなければ、長編小説を読み終えることはできない。
 読み終えたあと私は満足感に浸る。わざわざ買って読んで良かった。アイスコーヒーをちびちび飲みながら、少しづつ別のことを考え始める。あれ、具体的に何が良かったんだっけ?
 一般にひとは自分のかけた時間と労力になんとかして価値を見いだそうとする。だから長編小説を買って読んだあとの満足感も、それと似たようなものなのかもしれない。
 長さ。それは素晴らしいものだ。なぜかと言えば、長いものには意味がなければならないからだ。素晴らしかった!と思えなければならないからだ。無意味な長さに価値はない。だからこそ、この世界に無意味な長さは存在しない。
 私たちは長いものに巻かれるだけでなく、長いものにごまかされる。よく分からんけどなんか長かったんだし、まあすごかったんじゃないか?という気がしてくる。何が良かった?いやあ、とにかく良かったのですよ。

 川上未映子さんの『夏物語』という長編小説がある。反出生主義という考え方を扱った小説であると言われる。私もそのようなことが書かれてある何かの文章を読んであ、そうなんだ!と思い、まんまと読み始めた。そして反出生主義に関心がある友人に、この小説めっちゃ考えさせられるよ!などと、何度かオススメした。
 けれど『夏物語』はスッキリさせられる話ではない。反出生主義について考えている人に対して、なにかはっきりとした答えを与えてくれる小説ではない。むしろモヤモヤが増す。なぜか。それは『夏物語』が、長編小説だからだ。長いからだ。
 話が長いとそのなかに色んなものが入ってくる。著者自身の反出生主義に対するスタンス以外のさまざまな声が、どうしても入り込んでしまう。反出生主義をテーマとした小説と思って読み進めながらも、ここに書かれているのは単なる「人」の話なんだなと、いつの間にやら思うようになる。
 カテゴリーに基づいた理解を無効化する力が、長さにはあるのだと思う。人の長さに比べたら、ある考え方に賛成か反対かなどいう問題は、すべてどうでも良いものなのではないかという気がしてくる。考え方は行動に裏切られ、行動は考え方を変える。そして人は行動する。だから考え方は行動に負けていく。最後に残るのは行動の軌跡である。だからこの小説はどういう考え方の小説だったか、というタイプの感想を持つことはできない。とにかく良かった、そう言うしかない。本質的に。

 長編小説を読むことの不思議さは、人と仲良くなることの不思議さと似ているのかもしれない。仲良くなるきっかけというものがある。最初からその人の深いところを好きになることはできない。カテゴライズされたその人の表面を見ることしかできない。
 けれどその人と長くつきあう中で当初のカテゴリーは徐々に無効化されていく。浅はかな思いこみは絶えず裏切られ、そこにはまた違う種類の思いこみが与えられることになる。その繰り返しの中である時ふと、ああ、この人も単なる人なんだ、と思う。単なる人であるという匿名的な表現が、その人が自分にとって唯一無二の人であるという感覚を支える。不思議なことに。
 「この人も単なる人だ」と思えるために必要なのは、長さである。それしかない。人はどうのこうの言って頭が良い。だから人のことを理解しようとするし、人から理解されようとする。
 長さとは恐ろしきかな。それは私たちの頭の良さを越える。長いから、よく分からなくなってくる。これまでの長さをすべてカテゴライズし、意味付けし、理解しようとすることは、端的に無理なのだと思うようになる。
 私としては、その長さという神秘を祝福したいと思う。なんだか分からないが自然に残ってしまったその人との関係を、へんに理解しようとするのではなく、「とにかく好きな関係」として、ごまかされることを選びたいと思う。

 私たちは理解を閉ざす。恋愛関係とはこういうものだ!『夏物語』とはこういう小説だ!というふうに、1つの方向へと向かって理解を閉ざす。それはやむをえない。最初から開かれた関係を望むことなどできないから。
 閉ざされた理解が開かれた理解へと変質する地点を正確に、粘り強く待たなければならない。私はたぶん閉ざされた関係と開かれた関係の、両方を望んでいるのだと思う。長さだけが、それを可能にするのだろう。
 
 私はオムライスというよりも餃子だけ食べることができたらそれで良いのに、どうもメニューに餃子定食しかないようなお店で仕方なく頼む餃子定食に、いつもくっついているサラダみたいなやつだったのだと思う。
 このサラダにも金を払わないといけない。でもそれは念願の餃子を食すために必要なコストだ。やむをえない。というか、せっかくひっついてるのだし、美味しく食べなければ損ではないか。シャキシャキ、モグモグ、うむ、悪くない。
 ある日、彼は餃子の食べすぎで体調を崩す。もう餃子のような濃いいものは食えん。だが俺には!サラダがある!!ありがとうサラダよ!!こうして彼は餃子よりも、サラダ単品のほうを好んで食べるようになる。どうしてその世界では餃子の単品がないのにサラダの単品はあるのか。んなことは知らん。
 そのサラダに尊厳はあるか。あるとも言えるし、ないとも言える。サラダがあると思えばあるし、ないと思えばない。
 恐れ多くもそのサラダの気持ちがほんの少しだけ分かってしまう私としては、彼の中にある餃子との思い出が消えてくれないことを、かろうじて願うばかりだ。自分が体調を崩したのは餃子のせいなのだ!そのように彼が思わない限りにおいて、彼とサラダの関係は、これからも続いていくことになるのではないかと思う。

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