27歳になった
27歳である。2020-22年は本当に記憶が曖昧で、いつどこで何をしていたのか、全く定かではない。でも、時間はこちらのことなどおかまいなしに、きっちり時間通りに過ぎてゆく。
つい最近、40歳のことを「不惑」というのを知った。論語が由来で、「40にして惑わず」。今まで知らなかったのが結構恥ずかしいと思った。悪口とかじゃなく、身の回りの40歳やそれ以上の人も全然惑いまくりなわけで、そもそも時代が違うので孔子が考えていた不惑に当たる年齢も後ろ倒しになっているんだろうけど、まあ気持ちとしては焦るわけである。あと3年で、30歳。13年で40歳。
最近、ミシェル・フーコーの生政治、生権力の話をきちんと知りたいというか、自分の普段から考えていることにヒントを与えてくれそうだと思って、入門書をいくつか読んだ。その中で、フーコーが40歳の時に書いたメモが紹介されていた。
うーん、凄い。20世紀のめちゃくちゃ凄い哲学者と比べても仕方ないけど、自分が40歳の時に、こんなふうでいられるイメージがとても湧かない。仕事のちょうど中点。自分がやろうとしてきたことが何であるのか。俺はそもそも仕事を始められてすらいないような。
ただ、別にそんな何かを残すような、大それた仕事をしなければいけないわけでもない。会社勤めをなんとか続けて、おまんまを食っていくことだって、本当に大変な世の中だ。なんなら、その点ですら結構不安な将来である。
一方で、そもそも俺がライターや編集の仕事をやりたいと思ったのは、世の中に訴えたいことがあったからでもある。それは音楽の話だったり、社会の話だったりする。小学校の頃からそんな気持ちはあって、大学生ぐらいまでは何をしたいのか、ある程度固まっていたような気がする。世の中を少しは変えたいと思っていたし、聞いてくれよ、っていう気持ちがそれなりに燻ってもいたのだ。
そんな気持ちは、大なり小なり形にできてはいる。主に音楽についてだけど、書きたいことを書かせてもらう機会はそれなりにあったし、多くの人に読んでもらえることもあった。それに、今年は『アジア都市音楽ディスクガイド』
に関われたのも嬉しかった(実際作業していたのは去年だが)。反省点はかなりあるけど、本という形にもなったのは嬉しかったし、自分が書かなければならないと思えたのも、なかなか有意義だった。
ただ、会社勤めを続けながら細々とそういう仕事をしていくうちに、自分がやっていきたいことというか、問題意識みたいなものの輪郭がふやけて、捉えづらい感覚を強く覚えるようになった。毎日をこなしていくことや、ありつけた仕事をなんとかやっていくのに精一杯で、「そもそも何でこんなことしているんだっけ?」と思ったこともある。
ここ2年ぐらいの記憶が曖昧なのは、多分そういうことだ。単純にコロナのこともあるだろうけど、暗中模索というか、自分が何をしていて、やろうとしていることが何であるのか、いまどこにいるのかすらもよく分かっていなかった。
登山を始めたことやSF小説を読み始めたことは、結構いい気晴らしになった。SFアニメや映画は元々好きだから、小説も面白くて仕方がないし、さまざまなテーマが失った輪郭を補強してくれるような気がする。登山、というか運動全般に通じると思うけど、目の前のことに集中できる趣味は、精神衛生上かなり良い。電波が届かないから、余計なことを考える意味も必要もない。
日記というか月記?を始めたのも良かったと思う。「なにかやらなきゃ」的な焦りを「なにかやってる感」で誤魔化せる。
そう、だから一旦アウトプットを一切考えないようにした方がいいのだと思う。やりたいことも曖昧なまま手を動かしていたから「仕事を始められてすらいない」ような気持ちになったんだろう。
今を除くと一番本を読んでいた小中学生の時を、古典SFを読み漁っているとよく思い出すが、まさにその頃のような体験をもう一度やり直した方が良いのだ。俺を襲っているのは、きっと何かをやろうとする以前にまつわる問題だ。
一旦、仕事は頑張りすぎないぐらいでちょうど良いだろう。できることを、無理せずできる範囲で。ライターの仕事も同じ。これをやったら何かにつながるかも、とか変な期待もしないで、無理しない範囲でやる。
読書もそうだが、映画や音楽も基礎教養的な部分が圧倒的に欠けていると思っているので、一通り観たり聴いたりするつもりだ。「教養」とか書いちゃうと一気に嫌な感じになっちゃうけど(ファスト教養的な)、どちらかといえば取りこぼしてきたものを拾い直す、というような気持ち。結構いろんな面でクラシックに触れていないな、と思うことが多く、それ故に見えていない世界があるような気もしていた。なので今自分にはそれが必要だと思うし、後に活きるような気がしている。
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