メモ

「フェイクニュース」という言葉が自分の政治的立場や意見にとって都合の悪い事実を無効化させるために使われているように、「陰謀論」という言葉も、相手を打ち負かすことだけが全ての言論ゲームの駒に成り下がっているように感じる。

こうした分断がなぜ生まれたのか色々な研究がなされているが、よく差別問題などで語られているのは「攻撃されている」という感覚だ。

「ポリティカル・コレクトネスが社会を覆う状況にだれもが息苦しさを覚えるのは、「とんでもない責任のインフレ」 =「無限の負債」を感じるためである。そのうっとうしさから逃れようと、すべての「負債」を肩代わりしてくれる犠牲の羊を探し出し、「魔女狩り」のように「炎上」させ、「自らの行為の責任をやすんじて免除する」ことが繰り返される。」 —『「差別はいけない」とみんないうけれど。』綿野 恵太著
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意見や政治的な立場の違いへの批判が、そのまま人格への攻撃に感じられ、自分の身を守るためにより都合の良い情報を探し求め、従来の意味でのフェイクニュースや陰謀論が幅を利かせる。

対して、「陰謀論」という言葉が相手の主張を根も葉も無いものとして無効化させるために最近は乱用されているように思う。

今日見かけたツイートでは、とあるアーティストが「主流のメディアが信じられるものでは無い今、きちんと情報を精査しましょう」という旨のツイートに「陰謀論者」というレッテルが貼られていた。

もちろん「メディアが信じられない」という主張をする人物の多くが、陰謀論的な言説を支持しているのは確かに傾向として分かるのだが、「主流のメディアが信じられるものでは無い今、きちんと情報を精査しましょう」というツイート自体は「陰謀論者」だというレッテルを貼られるようなものでは無いはずだ。(結果としてそのアーティストは怪しかったけれども)

新聞やテレビの情報においても、一次ソースを確認してファクトチェックを行うことは、ポストトゥルースの時代において極めて重要な作業だ。

「日経新聞は政府寄りだから信頼性がない」とし「毎日新聞は左寄りだから正しい」としている人がいれば、それは誤りであろう。スタンスは関係なく、事実が先だ。

また、そうしたレッテル貼りのような相手陣営への人格攻撃、政治家個人への人格攻撃的なツイートも後を立たない。もちろん、差別や人命を軽視した言動は政治的なスタンスの違いに関わらず批判されて然るべきだし、考えを改める必要があるだろう。これは政治的正しさではなく、道徳的正しさの範疇だ。

一方でどんな人間にも人格を否定したり中傷、侮蔑の言葉を浴びせることはあってはならないはずだ。それは先にあげた差別と同列の行いだし、そうした人間を切り捨てることはあってはならないと感じる。

民主主義において政治や社会を変えるためには、選挙やデモを始めとした主張が大事だ。だがインターネットにおけるそうした主張は、そうした大目的ではなく、違う意見の相手を叩き潰すための道具であり、ゲームに過ぎなくなってしまっている。

大事なのは政治や社会がより良くなることだ。そんなことは誰もが理解していると思う。しかし、分断は止まらない。

そうした時代への対抗として、メルマガ上でのコンテキスト重視のメディアなど、色々アイディアは出てきてるように思うが、大きな成功例はまだそんなに無いように感じる。

陰謀論や似非科学、スピリチュアルによる影響が無視できないレベルにまで拡大している今日、同時にそうした言葉たちも都合の良いように変容し、あらゆる角度から手がつけられなくなっている。図書館学やメディアリテラシー、情報教育の重要性だけでなく、批判的な思考を養うこと、教育ディベートの充実など長期的な視点での対策が必要だろう。

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