お湯を煮る

ずっと書こう書こうと思って先延ばしにしていたnote、「〇〇が終わったらやろう」のままじゃいつまで経ってもやらないだろうな、と思ったので思い立ったが吉日ということで始めた。実際思いついたのは昨日だけど。

将来「なんで煮湯なの?」って聞かれて「お湯を煮るってなんかいいじゃん」とヘラヘラ笑っている様子が想像が付きムカつくので、ここに名前の由来を書き留めようと思う。わたしは何かを始める際HNを更新する癖があり、大抵今ハマっているジャンルに関連するものから取ってくるので、その今の好きな人間の名前から「ゆ」を取ってきて、わたしはナ行が特に好きなので、しりとりかあたまとりかの要領で組み合わせた結果これができた。にゆ、と考えて煮湯になり、お湯を煮るって倒錯的でいいよなと思った。結果書いても「お湯を煮るってなんかいいじゃん」とヘラヘラ笑うことに変わりはなかった。

わたしは意味もなく文章を書き散らすことが好きだし、別に隠そうとも思っていないから、なんどかそういう自分の思想を書き留めるアカウントを作ったことがある。でも結局「見られている」という意識から自分が逃れることは出来ず、見ている人が楽しいものがいいよなという緊張と共にツイートし続ける結果になったから、多分人に見られることは嫌ではないけどその呪縛から逃れられるほど受け入れられるものでもなかったのだと思う。まずプラスの感情で見てもらえるものであるかが気になり、感想をもらったらもらったで自分の文章がその感想をもらったものと同じレベルに到達できているかが気になり、これが終わらないのである。感情というものは常に同程度のものを保てないものだと思うから、プラスの感情を他者にもらってその継続と失われやすさに緊張するより、1人で安定した寂しさと共にただ壁にぶつける方がマシなのかも、みたいな気分になる。
わたしはわたし自身のことが嫌いではないが、他者にとって評価されうる人間だとは思わないからこんなことになるのかもしれない。これはただ自己評価が低いようにも見えるが自分を好いている人間をそこまで評価していないという言い換えとも考えられるから、わりかし酷いと思う。

文字制限がないからまとめることもなく書き散らしていたらいつのまにか1000字近くなったし、いかにもnoteに書かれていそうな文章でウケてしまった。ワハハ。ワハハと脳内で再生されるとき、わたしの中では名探偵の掟に出てくる大河原警部が話している。皆さんのワハハは誰が話していますか?ワハハか知らんけど。

昔から小説を読むのが好きで、小学校低学年の時は名探偵の掟が愛読書だったのだが、意味のわからないことに当時のわたしは栞を下の前歯の間に入れながら読んでいた(何かをしている時に何かを無意識にやる癖の対象が当時それだったのだと思われる)。それのせいで下の歯茎から少し出血し、かなり怖かったのを思い出す。ちなみにこの思い出すというのは嘘で、多分わたしは怖かっただろうと思いながら怖かったことまで思い出したことにしている。感情が付随する記憶は思い出しやすいというが、もしかしたら思い出しやすいのは感情が付随する記憶の方だけなのかもしれない。

それでなんで唐突に昔の話を始めたかというと、幼少期から本が好きだったために将来の夢が作家だったことが関係してnoteが書きたいとずっと思っていた、ということが書きたかった。今、さっき書いた文章の手直しをしようとして間違って選択した結果生まれた青のやつが全然消えなくてイライラしていた。noteを書く人間はいつも穏やに丁寧に暮らしていそうだと思ったでしょう。そんなことはない。アイドルが偶像なのと同じように何かを書く人間も書かれたものから綺麗なような気がするが全くそんなことはないのである。(広範囲の悪口)

わたしは本当に自分がやりたいと思ったことしかできない人間なので、気が向かないことなら切羽詰まっていたとしてもやれない(命に危険がない限り)
何か期限が決められてそれまでに何かやらないといけない!なら催促を無視する手間が辛いのでやると思うが、期限のあるようでない試験に関してはあまり取り組めない。指示待ち人間である。
では何もやらないのかというと、無駄なツイートは際限なくできるし、気が向いたからってボイパの練習は始められるし、気が向いたからってアコースティックギターのチューニングもするし、GarageBandで曲を作ってみるし、noteは始められる。音楽と文章は好きなんだと思う。
この話をよく哲学や行動規範について話す人間にしてみたら、「社会がこうだからとかで動けなくて、自分からの熱情がないとできないんだろうね」という感想を頂いた。
わたしはわたしの中に一本の太い針金を湛えていて、結局わたしの中の生きやすさの定義はその針金がどれだけ一般的な行動規範と近いものかなのだと思う。針金の由来は、昔友人が自分を芯があるが曲がることのできるお湯だと褒めてくれたのが嬉しく、それ以来自分は針金なのだと思っているからである。お湯だけど。

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