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【日胤・春秀】 以仁王の乱に登場する寺法師たち(3)

日胤 【じついん】(?~治承4年〔1180年〕)

平安末期の園城寺の僧。律静房りつじょうぼうまたは律上房。日胤は”にちいん”とも呼ばれます。(”じついん”という読みは長門本)
『平家物語』(長門本)では日胤も覚尊や春秀らとともに南都へ落ち延びる以仁王に護衛として同行し、光明山寺の前で死闘を演じて討死します。

日胤の父は下総国の武士で頼朝の鎌倉政権樹立にも大きく貢献した千葉常胤ちばつねたねで、日胤も頼朝と親交があったことが知られており、『平家物語』(長門本)にはこのようなエピソードが載っています。

頼朝がまだ流人であった頃、日胤は頼朝の依頼を受けて、石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうに千日籠り、「大般若経だいはんにゃきょう」を見読することで頼朝の武運長久を祈願していましたが、その祈願が700日目を迎えたとき、石清水八幡宮の御宝殿から金の兜を賜るという不思議な霊夢を見ました。そしてすぐさま伊豆の頼朝のもとへ下ってそのことを話すと、頼朝は大いに喜びました。

その後、平家が滅亡し、世の中も落ち着いた頃、頼朝はかつて自分のために武運長久を祈願してくれていた日胤を園城寺に訪ねました。ところが、すでに日胤が以仁王の乱で命を落したことを知ります。そこで頼朝は褒美を取らそうにも亡くなってしまってはどうすることもできない、ならばせめてその供養をいたそうと懇ろに日胤を弔ったということです。

ちなみに、『吾妻鏡』治承5年(1181年)5月8日条には日胤の弟子であった日恵じつえが師の千日行を引き継いで、ついに成し遂げたことを鎌倉へ報告しに来ている記事があることから、頼朝は日胤の死をこの時点で知っていたと思われます。「長門本」の語るのが事実の反映であるなら、頼朝が園城寺に日胤の菩提を弔うため訪れたのは、頼朝が上洛した頃のことなのでしょう。

春秀 【しゅんしゅう】(?~治承4年〔1180年〕)

平安末期の園城寺の僧。刑部房。俊秀とも。以仁王の奈良下向に際し、高齢のため同行できない師・乗円房慶宗の名代という形で、以仁王に付き従いました。

『長門本平家物語』によれば、春秀は相模国の住人、山内首藤俊通やまのうちしゅどうとしみちの子として生まれましたが、1159年(平治元年)に起こった平治へいじの乱で父・俊通が戦死。孤児となってしまった春秀は乗円房慶宗に引き取られて今日まで育てられたとあります。
つまり慶宗と春秀は単なる師弟関係だけでなく、育ての親と子の関係でもあったことになります。そのためか、奈良へ向かうことになった以仁王に慶宗は、“(春秀は)心振舞ひも、よくよく知りて候ふなり。不敵の法師にて候ふ。御身を放たせ給はで、此の僧が参りて候ふと思し召され候ひて、召しせさせましまし候へ(『長門本』より抜粋)”と春秀を自身の名代として推薦していて、慶宗は春秀に並々ならぬ信頼を置いていたことがうかがえます。

一方の春秀も自分に絶対の信頼を置いてくれている師匠(乗円房慶宗)の気持ちを汲んで、最後まで命の続く限り以仁王を守ろうと決意していたらしく、光明山の鳥居の前で以仁王一行が藤原(伊藤)景高かげたかの軍勢に追いつかれ、以仁王が無念の最期を遂げた際には、せめて以仁王の首を簡単には取らせまいと奮戦し、壮絶な最期を迎えたということです。

(参考)
松尾葦江編 『校訂 延慶本平家物語(四)』 汲古書院 2002年
麻原美子・小井土守敏・佐藤智広編 『長門本平家物語 ニ』 勉誠出版 2004年
水原 一 考定 『新定 源平盛衰記 第二巻』 新人物往来社 1988年

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