【治承~文治の内乱 vol.6】 綻びが生じる以仁王方
園城寺の軍勢、六波羅夜襲を計画
園城寺にて、以仁王はじめ園城寺の衆徒と合流した源頼政・仲綱らの武士たちは、戦の機先を制するため、平家の拠点の一つである六波羅へ夜襲を仕掛けることを提案しました。
まず頼政指揮のもと、戦力にならない老僧らに松明を持たせて如意山を越え、白河付近に放火することで陽動作戦を展開、その間に源仲綱・兼綱(頼政の養子)、渡辺党の武士たちをはじめ戦力になりうる園城寺衆徒たちが六波羅へ夜襲を仕掛けて清盛を討つという作戦です。
しかし、この夜襲を決行するに当たって、衆徒らとの評定は難航しました。
夜襲に慎重な者と実行すべきとする者とが対立したのです。
この時の様子について『延慶本平家物語』(※1)には、平家の祈祷師となっていた一能房心海が平家の軍勢の多さや失敗した時の影響を述べて慎重論を主張したのに対して、乗円房(乗因房)慶宗が自らの衆徒は打って出るからには園城寺に帰らぬと覚悟を示し、奇襲を実行すべきであると主張して対立したと記されています。
結局、慶宗らの主張が通って、夜襲が実行に移されることになりました。しかし、時は五月、夜が短いこともあって東の空が明るくなりはじめてしまいました。そこで夜襲部隊の仲綱は兵を引くことを下知、円満院の大輔が夜襲続行を中国の故事を引き合いに出して進言するものの、聞き入れられず夜襲は未遂に終わってしまいました。
帰路、強硬派の衆徒らは、夜襲が失敗したのは慎重論を展開して、いたずらに時を費やした心海らに責めがあるとして心海の僧房を破却するという挙に出、心海らも激しく抵抗したため双方多数の死傷者を出す事態に。結局、心海らは命からがら六波羅へ逃げ、この一件を平家に報告しました。しかし、六波羅にはかねてより多数の兵力を配備していたため、騒ぎにはならなかったといいます。
なお、この六波羅夜襲未遂の一件については、『平家物語』と『愚管抄(※2)』(巻第五・安徳)に記されていますが、『玉葉(※3)』や『山槐記(※4)』といった当時の貴族の日記には記されていません。『玉葉』や『山槐記』には巷説(ウワサ)なども記されていることから、触れられていてもおかしくないはずですが見当たりません。そのため、六波羅夜襲未遂が実際のことであったか判別できにくいですが、この頃都周辺では不審火が相次いでいたことはわかっています。この不審火が以仁王らの仕業かは定かではないものの、頼政の持仏堂が燃えたり(『吾妻鏡』※5)、山科にあった後白河法皇の離宮が燃えたり(『山槐記』※6)しているので、それだけ都周辺は治安が悪化し、緊迫した物々しい雰囲気の中にあったことはうかがえます。そうした中で以仁王らの六波羅夜襲計画があったとしても何ら不思議ではないでしょう。
平家による延暦寺勢力の懐柔
平家は延暦寺、園城寺、興福寺・東大寺をはじめとする南都の有力寺社が以仁王のもと反平家で結託する事態を憂慮して、これらの切り崩しを図りました。
そこで狙いとされたのが比叡山延暦寺です。延暦寺はもともと園城寺とは長年「山門寺門の抗争」と言われる対立関係にあり、時の天台座主(延暦寺における最高位の僧職)・明雲が親平家の立場であったこともあって、延暦寺が中立の立場をとることを期待したのです。
『延慶本平家物語』には、平家は比叡山への往来に近江の米3000石を寄せ、明雲の承諾を得た上で合計絹3000疋を園城寺との共闘をやめるよう書いた文書とともに延暦寺の各御坊(僧坊)へ1疋ずつ投げ入れたところ、思いがけず絹を得た延暦寺衆徒らは心変わりして、たちまちに園城寺との共闘をやめたという話が載っています。
この話の真偽は定かではありませんが、『玉葉』の治承四年五月二十五日条に明雲が比叡山に登山して衆徒らへ園城寺を攻撃することを語ったところ、大半がそれを承諾したらしいとする記事が見えることから、どのような形で説得が行われたか判明しないものの、平家の狙い通り、この時点で延暦寺勢力が以仁王勢力から離脱したことがわかります。
この記事が気に入ったらサポートしてみませんか? いただいたサポートは記事の充実に役立たせていただきます。