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【工藤茂光】 挙兵したての頼朝を支えた伊豆の実力者

はじめに

今回ご紹介するのは工藤茂光くどうもちみつです。
彼は平安末期の伊豆国の武士で、頼朝の挙兵に参加しましたが、石橋山の戦いで敗死。頼朝挙兵当初の段階で亡くなってしまったこともあり、その名はあまり知られていません。

伊豆国の実力者だった茂光

茂光は伊豆国牧之郷まきのこう一帯を本拠地としました。茂光は「工藤介くどうのすけ」と呼ばれ、当時の伊豆国衙こくが(伊豆国の行政を担う役所)で有力な在庁官人ざいちょうかんじん(伊豆国の役人)でした。

本来この「すけ」というのは国司の次官を意味しますが、伊豆国は下国という等級の国であったため、基本的に「介」の役職は置かれません。したがって、この「介」は“伊豆国衙において「介」と同じくらいの力を持った工藤”という意味で呼ばれていたと思われます。

そんな茂光の力がうかがえるできごとが『保元ほうげん物語』に載っています(※1)。それは源為朝ためともの討伐です。

源為朝は保元の乱で敗れて、伊豆大島に流されたのち、その地で力を回復し、伊豆諸島を支配下において反乱を起こしました。これを茂光が総大将となって伊豆国内の武士たちを率い、500余騎、兵船20艘という軍勢でもって反乱を鎮圧したのです。

この話が史実であるなら、茂光は伊豆国の軍事動員権(軍勢を動かすことができる権限)を持っていたことになり、伊豆国内で他の在庁官人や豪族のまとめ役となっていたことがわかります。

頼朝の挙兵に参加

茂光は頼朝の挙兵において頼朝に加勢しました。その背景としては、東伊豆の豪族で茂光とは同族(藤原南家為憲流ふじわらなんけためのりりゅう)だった伊東祐親いとうすけちかの台頭が挙げられます。

これまで伊豆国は知行国主ちぎょうこくしゅ(その国の国司任命権を持ち、その国からの収益を得ることができる人)を源頼政よりまさ、国守を源仲綱なかつな(頼政の子)としていましたが、以仁王の乱によって頼政・仲綱が敗死してしまうと、知行国主は平時忠ときただ(清盛の義弟)に、国守は平時兼ときかね(時忠の養子)に代わってしまいました。このことは伊豆国内の在地勢力のパワーバランスを崩すことになり、国衙内での権限にも変化をもたらすことになりました。

茂光はかねてより頼政・仲綱と親しい間柄でしたが、平家や平時忠との関係は希薄でした。それに対し、伊東祐親は平家の者たちと親交があったため、相対的に伊豆国衙内での力が増していったのです。つまり、こうした中で生じた両者の間のわだかまりが、結果的に茂光は頼朝方へ、祐親は平家方へ味方をし、同族ながら敵味方に分かれることに繋がりました。

石橋山の戦いで敗死

治承4年(1180年)8月23日。茂光は石橋山の戦いに参戦しましたが、味方は衆寡敵せず敗退。翌24日、大庭勢の執拗な落ち武者狩りから逃れて箱根山中を彷徨っていましたが、高低差の激しい土地柄は体躯肥大だった茂光には辛かったようです。そしてついに進退窮まり自害。
首級は孫の田代信綱たしろのぶつなが取り、子息の狩野親光かのちかみつがその首を持って逃げ延びたという話が『延慶本平家物語』や『吾妻鏡』に載っています(※2)。

ちなみに、工藤茂光のお墓と言われる場所が静岡県田方郡函南町にあり、北条時政の子である北条宗時むねときとともに葬られています。
(このお墓に関して少し謎があります。このお話は北条宗時のご紹介の時にまたしたいと思います)

工藤茂光の読み方について(追記)

工藤茂光のいみなの読み方について「しげみつ」とルビが振られているものがありますが、中山忠親なかやまただちかの『山槐記』治承4年9月7日条に相模国小早河こばやかわ(石橋山)で討たれた者として記載されている中に「薫藤介用光」というものがあり、これを工藤茂光のことを指すものとみて「もちみつ」と読むのが正しいと思われます。

注)
※1…『保元物語』「為朝鬼島ニ渡ル事ナラビニ最後ノ事」
※2…『延慶本平家物語 第二末』「石橋山合戦の事」ならびに『吾妻鏡』治承4年8月24日条

(参考)
上杉和彦 『源平の争乱』 戦争の日本史 6 吉川弘文館 2007 年
川合 康 『源平の内乱と公武政権』日本中世の歴史3 吉川弘文館 2009年
上横手雅敬・元木泰雄・勝山清次
『院政と平氏、鎌倉政権』日本の中世8 中央公論新社 2002年
安田元久 編 『鎌倉・室町人名事典』 新人物往来社 1990年
栃木孝惟・日下 力・益田 宗・久保田 淳 校注
『保元物語・平治物語・承久記』新日本古典文学大系43 岩波書店 1992年

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