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【慶秀・慶宗・真海】 以仁王の乱に登場する寺法師たち(2)

慶秀 【けいしゅう】(生没年不詳)

『平家物語』に登場する平安末期の園城寺衆徒おんじょうじしゅうと
通称は円満院大輔えんまんいんのたいふでこちらの名前の方が知られています。また法名は『延慶本』には慶秀とありますが、源覚げんかくとするものもあるようです。

物語では園城寺から六波羅へ奇襲をかけようと合議していた時、合議をしている場合ではないとすぐにも奇襲をかけるべく飛び出したり、奇襲作戦中止を大将であった源仲綱が決めた時も中国の故事を引き合いに出して決行するべきと強く主張したりと園城寺衆徒(寺法師)の中で一番の強硬派と思われるほどの剛の者として描かれています。その後の宇治平等院の戦いにおいても五智院但馬ごちいんのたじま(明禅)や明秀めいしゅう浄妙房じょうみょうぼう)、一来いちらい法師らとともに奮戦しています。

なお、『源平盛衰記』ではこの慶秀(円満院大輔)の後日談が載っており、宇治平等院の戦い後、園城寺に帰り着いた慶秀は比叡山延暦寺の者たちが味方しなかったために戦に負けたと考え、その腹いせとして延暦寺に放火しようと山に登ったはいいものの、延暦寺の伽藍の素晴らしさや霊験あらたかなる様子に心を奪われ、放火するのをやめてしまったという話があります。

慶宗 【けいしゅう】(生没年不詳)

平安末期の園城寺の僧。「慶俊」とも「慶秀」とも記されています(『長門本』など)。通称は乗円房じょうえんぼうで、春秀しゅんしゅう刑部房ぎょうぶぼう)の師。

以仁王の乱が起こった時にはすでに80歳を超える老齢でしたが、血気はかなり盛んで、園城寺僧兵らが六波羅奇襲を計画した際には、率先して以仁王を助けて奇襲するべきと主張し、実行されなければ自分の弟子たちだけでも出陣して清盛の首を獲ってくると言うほどでした。
しかし、以仁王の奈良下向に際しては、高齢を理由に自らは同行せず、やむなく弟子の春秀(刑部房)を名代として王に随伴させました。

真海 【しんかい】(生没年不詳)

『平家物語』に登場する平安末期の園城寺の僧で、通称は一如房いちにょぼうまたは一能房いちのうぼう。法名は心海とも記されます(『延慶本平家物語』)。

平家物語では以仁王支持の強硬派が多数の寺法師の中にあって、真海は平家の祈祷師を勤めていたこともあって穏健派で、園城寺から六波羅へ機先を制するため奇襲をかけようと合議をした際にも、慎重論を唱えました。そのため奇襲作戦が未遂に終わると、強硬派の悪僧らから、奇襲作戦が失敗に終わったのは、一如房が慎重論を唱えていたずらに時間を費やしたためであるとして、真海の僧房(僧侶の住まい)を壊され、自身の命も狙われる事態となってしまいました。そこで命からがら六波羅へ逃げ、平家に保護を求めたといいます。

長詮議する寺法師たち(『平家物語絵巻』「大衆揃へ」より)

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(参考)
松尾葦江編 『校訂 延慶本平家物語(四)』 汲古書院 2002年
麻原美子・小井土守敏・佐藤智広編 『長門本平家物語 ニ』 勉誠出版 2004年
水原 一 考定 『新定 源平盛衰記 第二巻』 新人物往来社 1988年


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