見出し画像

【源 頼政 vol.4】 最後の平安武士

頼政よりまさが武門源氏として初めてとなる従三位じゅさんみの位階にまで昇進したにもかかわらず、以仁王もちひとおうの乱に加担した理由はなんであったのでしょうか。
これまで『平家物語』や『吾妻鏡あずまかがみ』などは頼政が平家への謀叛を後白河法皇の第三皇子・以仁王もちひとおうへ勧め、王の令旨りょうじ御教書みぎょうしょ)を大義名分として反平家の兵を挙げたとしていますが、果たして頼政が乱の首謀者だったのでしょうか。

これらの疑問の答えは今では確たる史料もなく、はっきり断定できるものはありませんが、僅かな情報を手掛かりに答えを探ってみたいと思います。
 
平安時代の武士(平安武士)、とりわけ都周辺で活動する武士(京武者)は戦国時代や江戸時代の武士とは違い、皇族や上級貴族の身辺警護や都の治安維持を主な務めとして、時には朝廷からの命令を受けて反乱を鎮圧したり、僧兵の強訴ごうそを抑止したりすることをしていました。

武士を表す単語の一つに「さむらい」というものがありますが、この「侍」の語源は「さぶらふ」という動詞が名詞化したものであるといいます。この「侍ふ」の意味を手許の古語辞典(『福武古語辞典』新装版第十五刷 ベネッセ 1995年)で引いてみれば、
 
①     神仏や貴人の側にお控え申し上げる。お仕え申し上げる。
②     おうかがいする。参上する。
③     (物などが)神仏や貴人のお側にある。
④     ございます。あります。
 
とあり、「貴人のお側に控える者、仕える者=侍=武士」ということで、そもそも武士というのは貴人(皇族や上級貴族)のお側近くに控え、お仕えすることが本分であったといえます。

頼政もそうした平安武士の一人として活動をしており、その76年の生涯の中で鳥羽法皇、近衛このえ天皇、美福門院びふくもんいん、二条天皇、八条院といった人物に仕えてきました。そこで気がつくのはこれらの人物はみな鳥羽法皇ゆかりの人物、鳥羽法皇から続く皇統の継承者もしくはそれを擁護する立場の人ということであり、以仁王も八条院の猶子ゆうしとなっていることから鳥羽法皇の皇統を受け継ぐ資格をもつ皇族でした。
つまり、主である以仁王が反平家の兵を挙げると決断した時、頼政は近侍する武士(侍)として自然にそれに従ったのです。

ただ、頼政の生きた院政時代(平安時代末期)。このころはすでに従来の武士のあり方に変化が見られ、武士は単純に‟貴人のお側に控え、仕える者“ではなくなっていました。
その契機はなんといっても保元と平治の立て続けに起こった2つの乱にあったと考えられます。この2つの乱で武士たちは自らの力(武力)で政局を動かせるということに気がついてしまいました。保元・平治の乱で中心的役割を果たした武士である平清盛きよもりと源義朝よしともは特にそのことを強く意識していたと見られ、自らの持つ力の可能性を見出し、それを十二分に発揮することで、やがて武士が政治の中心に踊り出ることができると考えたのです。

頼政も2つの乱に参加し、その結果目まぐるしく変わる政局を目の当たりにして当然このことに気づいた武士の一人であったでしょう。頼政自身もこの乱を経て徐々にではありますが、位階が上昇し、やがては武門源氏で初めてとなる従三位に昇進されたことは武士の政治的地位が向上した何よりの成果であることを実感したにちがいありません。

源頼政肖像(森寛斎 筆 京都大学付属図書館 蔵)

ところが、頼政は清盛や義朝のようには考えませんでした。むしろそうした武士のあり方に疑問を抱き、反発していた節がその後の頼政の行動を見ると感じられるのです。

『平家物語』では頼政自身が位階の上昇を望み、度々歌を詠んで昇進したような話が描かれていますが(次回参照)、頼政が治承じしょう2年(1178年)12月に従三位に昇叙された際、この頃頼政は病が重いためになかなか拝賀はいが(朝廷に昇叙のお礼を申し上げること)できずにおり、翌年の4月にようやく拝賀できたことがわかっています。

この時の頼政の病状がどの程度のものであったのかわかりませんが、4か月も病床に臥せていたのなら相当な病です。それなのにこのほぼ一年後、以仁王の乱で老将なおも盛んと弓矢を放ち、戦っているのです。このことを考えると、この従三位昇進は頼政が望んだものでなく、武士が従三位という公卿くぎょうに列する地位につくこと自体を嫌った可能性があります。

しかし、朝廷からいただく官位を断るなどということはありえず、ならばせめて不本意の昇進であることを示すために病と称して拝賀を先延ばしにしたとも考えられるのです。
この頼政の従三位昇進はどういう背景があったのでしょうか。それを考えたとき、浮かんでくるのは平清盛の存在です。

(参考文献:多賀宗隼『人物叢書 源頼政』吉川弘文館 1973年・上杉和彦『源平の争乱』「戦争の日本史6」吉川弘文館 2007年)

この年表は頼政が昇叙された時(青)と清盛にとって政治的節目となる事柄が起こった時(赤)を表したものです。この年表を見ると、あることに気がつきます。清盛が何か政治的節目を迎えると、ほぼそれに前後して、あまり間を開けずに頼政の位階が上昇しており、その位階上昇も清盛がいよいよ政治的活動を活発化させる仁安にんあん元年(1166年)以降、かなり急激なものとなっていることがわかります。

一体これは何を意味するのか。

清盛は頼政を鳥羽法皇の皇統を守る代表的な武士(武力)と目していて、その鳥羽法皇の皇統は自らが推進したい高倉天皇の皇統とは相容れない関係であったため、頼政の位階を上昇させることによって懐柔かいじゅうし、その武力を自らの側に取り込もうとしていたと考えられないでしょうか。
いくら平家が都周辺で一番の軍事力を持つ勢力とはいえ、頼政(摂津源氏)やそれに追従する渡辺党(嵯峨源氏)の勢力も侮れない規模であり、自らの思惑を無事に果たすためには、いたずらに敵を作らず味方にした方が得策と思ったのではないでしょうか。それならば、清盛の政治的節目に頼政の位階が上昇することが説明できるのです。

しかし、こうした清盛の懐柔策も功を奏しませんでした。治承3年(1179年)11月14日から20日にかけて清盛が起こした政変、いわゆる「治承三年の政変(クーデター)」以降に取った頼政の行動がそれを示しています。

頼政は政変の起こった直後である11月28日に突如出家をしているのです。
この出家は従来、従三位にまでなった頼政が老齢だけにもはや思い残すことはないと家督を嫡子である仲綱に譲った事実上の引退を示したものと考えられていますが、出家したタイミングを考慮すると、これは清盛に対する抗議と考えるのが自然ではないのかとも考えられます。

治承三年の政変は、清盛が対立する後白河法皇を軟禁して政治の舞台から引きずり下ろし、後世に「平氏政権」と呼ばれる、平家が政権掌握を成し遂げた事件です。これはついに武士が法皇をも退けて政治の中心に躍り出た瞬間で、紛れもなく日本史上の画期でした。これに対し、頼政は出家というかたちで抗議、清盛に‟武士の本分(侍)をわきまえよ“ということを伝えたかったのではないでしょうか。

 ところが清盛はそんな頼政の出家など気も留めずに、自らの構想実現にまい進します。

治承じしょう4年(1180年)2月には高倉天皇が清盛の娘・平徳子との間に生まれた言仁ときひと親王に譲位、4月に即位します(安徳天皇)。
当時、天皇位を決定できるのは皇族の長・治天の君であり、それが院政時代の一つの特徴であるのですが、その治天の君であるはずの後白河法皇が政変で軟禁中のため、治天不在ということで清盛主導の皇位継承がなされたのです。

このことは鳥羽法皇の皇統を受け継ぐ以仁王がついに平家打倒の志を抱くきっかけとなりました。王はこのままでは平家によって皇族の秩序が破壊される恐れがあるかもしれないと危惧したのかもしれません。そして、日ごろ以仁王に近侍する頼政へも平家打倒の協力を呼び掛けたことは想像に難くありません。 

ここで頼政には2つの選択肢がありました。
一つはこれまで通り以仁王に従い、平家打倒へ向けて行動する。もう一つは、頼政も平氏政権の一翼と見られ、清盛からの信頼も得ていたことから、以仁王には従わず、いまや断然優勢である清盛に追従する。といういずれかです。

もし、この時頼政が以仁王に従わなければ、きっと無事平穏な人生を送ることができ、ともすれば日本史上初となる武家政権である平家政権自体もう少し長続きしたかもしれません。しかし、頼政はなんら迷うことなく以仁王に従うという険しい道をあえて選択しました。もっと言えば、頼政は武士たる者あくまでそもそもの本分を貫き通すべきだという意思を明確にしたことにほかなりません。

この時の頼政の胸中にはかつて仕えた鳥羽法皇や美福門院の面影が浮かんだことでしょう。頼政にしてみれば、これまで主人から受けた数々の恩に報いるためにも、以仁王に従うこと以外思いもよらないことだったのかもしれません。

さて、以仁王の乱は「治承・寿永の乱」のシリーズでお話しした通り、事前に挙兵計画が露見して失敗。頼政は最終的に平家によって追い詰められ、いよいよ最期の時を悟ります。
 
埋もれ木の 花咲くことも なかりしに 身のなる果てぞ あはれなりける
 
これが『平家物語』にある頼政の辞世の句です。この歌の意味は様々に解釈されますが、もしこの歌が本当に頼政によって詠まれたものであるなら、
 
“まるで埋まってしまっている木のような私が花咲かせることなどありえないのに、このように武士としての本分を全うして戦って散る様子は、まるで花が散るようなしみじみとした趣をもつ美しいものではないか”

という解釈になるでしょうか。

もちろん、頼政には無念さもあったでしょう。ですが、こうして自分の信念に基づいて華々しく戦って最期を迎えることができたことは、武士としての悦びにも似た清々しいものを感じていたでしょう。

頼政は武士の力の可能性に気づきつつも、以仁王に従ってあえて平安武士としての本分を全うしました。しかし、そこにはただ受動的に従うのではなく、武士としての本分を全うすべしとする強い信念を持ち、能動的に従った頼政の姿があったに違いありません。

頼政の死後、時代の流れは留まることなく、やがて頼朝による本格的な武家政権の誕生を迎えるに至ります。そして、これまでの武士のあり方が徐々に変化していきます(鎌倉武士の登場)。そういうことからして、頼政は‟最後の平安武士”だったと言えるでしょう。
しかし、頼政の本来の武士のあり方を示したはずの行動が、結果的に次代の扉を開けることになってしまったというのは、なんとも歴史の皮肉です。

⇒次記事


(参考)
多賀宗隼 『源 頼政』新装版第2刷 吉川弘文館 1997年
上杉和彦 『源平の争乱』 戦争の日本史 6 吉川弘文館 2007 年
川合 康 『源平の内乱と公武政権』日本中世の歴史3 吉川弘文館 2009年
上横手雅敬・元木泰雄・勝山清次
『院政と平氏、鎌倉政権』日本の中世8 中央公論新社 2002年
生駒孝臣 「源頼政と以仁王ー摂津源氏一門の宿命ー」
(野口実編『治承~文治の内乱と鎌倉幕府の成立』中世の人物○京・鎌倉の時代編 第二巻 所収)清文堂 2014年

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか? いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます。