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【治承~文治の内乱 vol.1】 治承・寿永の乱のはじまり

以仁王の乱について

以仁王もちひとおうの乱とは、平安時代末期の治承じしょう 4 年(1180 年)、当時権勢を誇っていた平家に対し、後白河法皇ごしらかわほうおうの第三皇子である以仁王が謀叛を企てたとされる事件です。

この以仁王の謀叛には摂津源氏せっつげんじ源頼政みなもとのよりまさやその息子・源仲綱みなもとのなかつな、その摂津源氏と主従関係にある渡辺党(嵯峨源氏さがげんじ)をはじめとする武士ばかりでなく、園城寺おんじょうじ三井寺みいでら)僧兵も参加、さらに興福寺こうふくじ東大寺とうだいじをはじめとする南都なんと(奈良)の僧兵らも同調の姿勢を示したことで、当時の平家全盛の世に少なからず衝撃を与えたものとなりました。

結局、この謀叛は早い段階で計画が露顕したために、以仁王側が反平家勢力の結集を思うように図れず、平家によってすぐに鎮圧されることになりますが、この謀叛をきっかけとしてかねてより平家主導の政治に不満を抱いていた全国各地の諸勢力を中心に反平家の機運が高まり、日本史上初の全国的な内乱とされる治承・寿永の乱が勃発することとなりました。

鎌倉政権の原点とされた以仁王の乱

鎌倉政権の由緒を記した『吾妻鏡あずまかがみ』は治承 4 年(1180 年)4 月 9 日の記述から始まります。この記述の内容は以仁王のもとに源頼政と源仲綱父子が訪れて、当時絶大な権勢を誇っていた平家に対して反旗を翻すよう促し、王はそれに応じて決起したことを伝えるものです。
この記述の事実関係、信憑性はともかく、この以仁王の決起が『吾妻鏡』の冒頭となっているということは、この一件がその後始まる治承・寿永の乱のきっかけであるばかりでなく、さらにその内乱の中で徐々に形成されていった鎌倉政権の原点となる出来事であると鎌倉中期の『吾妻鏡』編纂者たちが認識していたことを示していると思われます。

以仁王謀叛の動機

以仁王が謀叛を起こす動機となったのは、治承 3 年(1179 年)11月に起きた政変(治承三年の政変)と翌・治承 4 年(1180年)4 月の言仁ときひと親王の即位(安徳天皇あんとくてんのう)にあると考えられています。(※1)

まず治承三年の政変とは、平清盛たいらのきよもり高倉院政たかくらいんせい実現のために、かねてより清盛との対立が目立っていた後白河法皇を都の郊外にある鳥羽殿へ移して幽閉状態に置くことによってその院政を停止し、さらには後白河院の近臣きんしんや院と親しい人物を処罰して、朝廷の人事も高倉天皇を中心とした平家に親しい人物で固めた事件です。
そうした中、以仁王もその煽りを受けて自らが所有する常興寺じょうこうじ(成興寺、城興寺とも)とその寺領を没収されてしまいました。
これには平家の高倉天皇の皇統こうとう(天皇の血統)を維持していきたい思惑が作用していたと思われ、高倉の対立候補となりうる以仁王の経済基盤に打撃を与えることで少しでも王の影響力を低下させる狙いがあったと考えられます。

続いて治承 4 年(1180 年)2 月に高倉天皇と清盛の娘である平徳子たいらのとくこ(のちの建礼門院けんれいもんいん)の間に生まれた言仁ときひと親王が父帝(高倉天皇)から譲位されて践祚せんそ、4 月に第 81 代天皇として即位しました(安徳天皇あんとくてんのう)。
これにより平清盛は天皇の外祖父となってこれまで以上の権力を保持するに至って、高倉上皇と親平家の貴族、平家一門を中心とする清盛念願の高倉院政を実現させました。そして、この事は皇位継承が以後高倉の血統でなされていくことを決定づける意味もなしており、以仁王の皇位継承の可能性を大幅に低下させたのです。

しかし、これで以仁王が皇位につく可能性が完全になくなったわけではありません。なぜなら以仁王は単に後白河法皇の第三皇子というだけでなく、もう一つ皇位継承の根拠を持っていたからです。

その根拠というのは、以仁王が八条院はちじょういん暲子内親王あきこないしんのう)の猶子ゆうし(※2)となっていた点にありました。
この八条院(暲子あきこ内親王)という人物は父を鳥羽院、母を美福門院びふくもんいん藤原得子ふじわらのとくこ)に持ち、両親それぞれから受け継いだ各地に多く広がる荘園(八条院領はちじょういんりょうといいます)を一身に相続して、その強い経済的基盤やそれに伴う多くの人脈を持っていました。そしてそれらを背景として中央政界に一定の影響力を持つ女院にょいんとして平家からも一目置かれる存在だったのです。

つまり、以仁王はこの八条院を後ろ盾に持っていることで鳥羽院の皇統を継承できる立場にあり、その支援を期待することができました。そこで以仁王は平家への不満から平家主導の高倉院政を否定し、平家とは縁のない自らが皇位に立つことで政治を平家の手から取り戻そうと謀叛を起こすに至ったと考えられるのです。

注)
※1・・・上杉和彦 『源平の争乱』戦争の日本史 6 吉川弘文館 2007 年
※2・・・養子ほど親子関係が濃くはないですが、後見人と被後見人の関係といった要素が強い親子関係

《参考文献》
上杉和彦 『源平の争乱』 戦争の日本史 6 吉川弘文館 2007 年
川合 康 『源平の内乱と公武政権』日本中世の歴史3 吉川弘文館 2009年
上横手雅敬・元木泰雄・勝山清次
『院政と平氏、鎌倉政権』日本の中世8 中央公論新社 2002年

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