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【甲斐源氏 vol.1】 甲斐国と河内源氏

はじめに

今回は甲斐源氏かいげんじについて、それが史上に登場し始めた頃から治承じしょう寿永じゅえいの乱が始まる頃までの話を何回かに分けてお話ししていきたいと思います。

甲斐源氏というと真っ先に思い浮かぶのは、甲斐武田氏かと思いますが、この甲斐源氏という氏族はすそ野が広くて、小笠原氏おがさわらし南部氏なんぶし三好氏みよししなどこれまた室町・戦国時代でおなじみの一族もルーツを辿っていけば、みんなこの甲斐源氏につながります。

甲斐源氏という氏族は別の言い方をすると、河内源氏義光流かわちげんじよしみつりゅうという氏族のうちの一つで、新羅三郎しんらさぶろうこと源義光みなもとのよしみつの子孫ということになり、他に佐竹氏さたけし平賀氏ひらがしなどもこの河内源氏義光流になります。

そして、河内源氏というのは源頼信みなもとのよりのぶからはじまる源氏(清和源氏せいわげんじ)で、頼朝義経義仲足利氏新田氏などもこの氏族に入ります。

ちょっとややっこしいかもしれないので、簡単な系図を張っておきますね。参考にしていただければ幸いです。

甲斐国と河内源氏

さてさて、甲斐源氏の話をする前に、まずはおおもとの河内源氏と甲斐国のお話をしなければなりません。

河内源氏と甲斐国との接点は、河内源氏氏祖の源頼信みなもとのよりのぶ長元ちょうげん2年(1029年)に甲斐守に任じられたときから始まります。

ちょうどこの時、東国では平忠常たいらのただつね(両総平氏の氏祖)という者が房総半島を中心に国司を殺害するなどして暴れまわっており、朝廷も追討使を派遣していましたが、全く鎮圧できずにいました(平忠常の乱)。

そこで朝廷はこれ以上乱による戦火が広がらないように、源頼信を甲斐守かいのかみに任じてその抑えとしていましたが、これより先に遣わしていた追討使が追討に失敗するや、やむなく頼信を追討使に任命。その鎮圧にあたらせたのです。

頼信は追討使として甲斐国へ下ってくるなり、鎮圧に向けて出兵の準備を進めました。すると、どうしたことか平忠常はあっさりと頼信に降伏してきたのです。つまり、頼信は兵を動かさずに乱を鎮圧したかたちとなったのです。

ちなみに、平忠常があっさり頼信に降伏してきたのには、様々な意見があります。「以前から忠常と頼信とは主従関係にあったから」とか「ここ数年の戦乱で房総半島がひどく荒らされて作物の収穫量が減り、これ以上忠常が戦い続けることができなくなったから」とか「頼信の武威に忠常が恐れを抱いたから」など諸説あります。

ともあれ、全く鎮圧できずにいた乱を一兵も損なうことなく鎮圧したことは、頼信の名声をいやがうえにも高め、甲斐国はもとより東国においても河内源氏の存在感を強めました。

その後も頼信の息子である源頼義みなもとのよりよしが東北地方の安倍氏を討伐した前九年ぜんくねんの役(1051年~1062年)、頼義の息子である源義家みなもとのよしいえ八幡太郎はちまんたろう)が東北地方の清原氏を討伐した後三年ごさんねんの役(1083年~1087年)などを経て、東国での河内源氏の存在感はいよいよ強力なものとなっていきました。


源義清・清光父子の甲斐国配流

そんな中、源義光は後三年の役の直後に、兄・義家から常陸国依上保ひたちのくによりかみのほ(今の茨城県久慈くじ大子町だいごまち)という土地を譲り受けました。

依上保は北常陸の山間の土地でしたが、保内を久慈川くじがわが流れており、これを天然の水路として常陸の太平洋岸と奥州方面を結ぶ中継地点として、また陸路では西隣の下野国方面へ出られる道がある交通の要衝といえる土地でした。

そこで義光はそんな立地と河内源氏の武威を生かして力を蓄え、常陸平氏をはじめとする近隣の諸豪族と協力しながら、徐々に勢力を広げていきました。

こうしたなか、義光の息子である義清よしきよを、北常陸を流れる那珂川の水運の拠点の一つであった那珂郡なかぐん(吉田郡とも)武田郷(茨城県ひたちなか市武田)に置いてさらなる勢力拡大を図りました。
そうです、この武田郷の義清こそ武田氏の氏祖となる武田義清です。

ところが、この義清は武田郷を拠点にした勢力拡大に失敗してしまいます。

あろうことか母親の実家である地元の常陸平氏ひたちへいし一族の吉田氏や鹿島かしま氏と対立してしまい、鹿島成幹かしまなりもとをだまし討ちにしてしまうという事件まで引き起こしてしまったのです。

さらに、義清の息子である清光きよみつまでもが濫行らんぎょう(その地位にある者として、してはならない、道に背いた行い)をするに及んで、義光が亡くなって3年後の大治だいじ5年(1130年)12月、ついに親子ともども近隣の者たちに朝廷へ訴えられる事態になってしまいました。

そして、翌年の天承てんしょう1年(1131年)。

義清・清光父子は甲斐国市河庄いちかわのしょうへの流罪に処せられ、常陸国を追われてしまいました。

なぜ義清と清光の配流先が甲斐国の市河庄になったのか、そもそも清光の濫行がどのようなものであったのかなど、詳しいことは今のところわかっていません。

ですが、義清と清光は甲斐国に来たことによって、命運が好転していきます。

甲斐国では義清と清光は在地の豪族に受け入れられ、勢力拡大の礎を築いていくことになるのです。

これは、かつて武威を轟かせた源頼信をはじめ頼義や義家・義光といった河内源氏の血を引いた者というある意味ブランドに対するあこがれのようなものが甲斐の人たちに根付いていたためだったと言われています。

正直、この頃の話は伝説とまでは言いませんが、かなりわからないことが多くて、あまり釈然としない部分も多いように思います。ですが、義清・清光親子が甲斐国へやってきて、そこから甲斐源氏の歴史が始まったことは間違いない事実のようです。


武田氏の家祖は?

武田氏の祖とされるのは義清ではなく、その父・源義光(新羅三郎)とされることがあり、実際に山梨県内には義光に関する伝承が数多く存在します。

北杜市ほくとし須玉町すたまちょう若神子わかみこには義光が甲斐守任官のおり、現地へ下向してきて若神子に居館を構えたという伝承もあります。

ところが、これらの伝承はまったく確証がなく、義光が甲斐守に任官されたのさえ、いくつかの系図上に記されているだけで、他の史料からは裏付けができていません。

先ほどもお話ししましたが、義光自身は甲斐国より常陸国での勢力拡大を目指していて、実際に常陸へ下向していたことが史料によって裏付けられています。

そんなことも踏まえると、義光と甲斐国の接点はあまりなかったように思われ、これらの伝承はどうやら後世に作られたもののようです。

また、戦国時代に隆盛した甲斐武田氏が御旗みはた(源義家の軍旗)楯無たてなし(源義光の鎧)を家宝として大事にし、自分たちの祖を義光に求めていたというのも、地域の伝承に少なからず影響を与え、それが定着してしまったと思われます。

まぁ、どうしても義清より義光の方が知名度があるため、そうしたことになってしまったんでしょうね。


ということで今回はここまでです。
次回は義清と清光がどのように甲斐国へ勢力を伸ばしていったのかというお話です。

それでは最後までお読みいただきありがとうございました。

(参考)
山梨県 『山梨県史 通史編2 中世』 山梨日日新聞社 2007年
磯貝正義 『甲斐源氏と武田信玄』 岩田書院 2002年
西川広平 「甲斐源氏ー東国に成立したもう一つの「政権」ー」
(野口実編『治承~文治の内乱と鎌倉幕府の成立』所収)清文堂出版 2014年
野口 実 『源氏と坂東武士』(歴史文化ライブラリー234) 吉川弘文館 2007年
芝辻俊六 『甲斐武田一族』 新人物往来社 2005年

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