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【長谷部 信連】以仁王の懐刀

長谷部 信連 【はせべ-のぶつら】 (?~建保6年〔1218年〕)

平安末期~鎌倉前期の人です。
『平家物語』では武勇優れ忠義に篤い人物として描かれています。

信連は後白河法皇の第三皇子である以仁王もちひと-おうに近侍した武士として、以仁王の謀叛が発覚した際には三条高倉にあった王の御所に留まって、検非違使けびいしの手勢を相手に孤軍奮闘し、何人かの者に手傷を負わせています。

結局、信連は検非違使に捕らえられ、平宗盛たいらのむねもりの尋問を受けることになりますが、宗盛はじめ平家の武者たちを前に毅然とした態度で臨んだといいます。

信連はかの武勇と忠義に感心した平家の武者たちの助命嘆願もあって死罪を免れ、伯耆国ほうきのくに(今の鳥取県西部)日野郡へ流罪となりました。

信連は治承・寿永の乱では活動していなかったようで、その後歴史の表舞台に出てくることはありませんでした。

しかし、『源平盛衰記』によれば乱も収まった文治2年(1186年)頃、鎌倉の源頼朝みなもとのよりともに召し出され、以仁王に対する忠節とこれまでの数々の武功を評されて、このような者の胤を絶やしてはならぬと由利小藤太ゆりことうたという人物の後家を娶らせられ、頼朝自筆の下文くだしぶみをもって能登国のとのくに大屋庄おおやのしょう地頭職じとうしきに任じられたと伝わります。そして、この子孫が室町時代に能登畠山氏の重臣、江戸時代では加賀前田家に仕えたちょう氏であるといいます。

信連は度々その武勇を示したエピソードが残る武者で、かつて二条高倉にて強盗6名が押し入り、人々は手をこまねいて取り逃がしてしまいそうなところに、信連がそこを通りかかり、強盗とすれ違いざまに4人を斬り伏せ、2人を生け捕ったことがありました。そしてこの時の恩賞として左兵衛尉さひょうえのじょう右兵衛尉うひょうえのじょうとも)の官職を賜ったというエピソードもあります(『平家物語』)。

なお、信連の出自は不明ですが、父は長馬新大夫為連ちょうばしんたいふためつら(『吾妻鏡』)とも長右馬丞忠連ちょううまのじょうただつら(『長門本』)とも伝わります。

林原美術館 蔵『平家物語絵巻』より。
以仁王に女装して逃げるよう勧める信連が描かれています。

(参考)
松尾葦江編 『校訂 延慶本平家物語(四)』 汲古書院 2002年
麻原美子・小井土守敏・佐藤智広編 『長門本平家物語 二』 勉誠出版 2004年
水原 一 考定 『新定 源平盛衰記 第二巻』 新人物往来社 1988年
黒板勝美編 『新訂増補 国史大系 (普及版) 吾妻鏡 第一』 吉川弘文館 1968年
安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』 新人物往来社 1990年


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