【源 仲綱】以仁王の令旨を奉じた武士
平安末期(院政時代)の武士・歌人です。摂津源氏・源頼政の嫡男で、母は源斉頼の娘です。
『平家物語』や『吾妻鏡』に記載されている「以仁王の令旨」には令旨の奉者として「前伊豆守正五位下源朝臣」と仲綱のことを指す名前が記されていて、「以仁王の令旨」を奉じて諸国へ平家討伐を呼びかけたのはこの仲綱ということになっています。
さらに『平家物語』には仲綱の愛馬・木の下をめぐって、仲綱と平宗盛とがトラブルを起こし、それが原因で平家謀叛を企てたとするエピソードを載せており、これらのことから仲綱やその父・頼政が以仁王の乱を引き起こしたように見えてしまうのですが、以仁王の乱の背景などを考慮に入れると、以仁王の動機の方が強く、王自身が中心となって乱を起こし、頼政・仲綱らはそれに従ったものと思われます。
仲綱の肩書きは「前伊豆守正五位下」ということで、父・頼政が承安2年(1172年)頃、伊豆国の知行国主となったのに伴って伊豆守に任じられたと思われます(※1)。このことからわかるように、仲綱は国守に任じられる諸大夫クラスの身分ということで、武士の中での身分は高い方です。
ちなみに、仲綱はこの伊豆守の前は隠岐守に任じられていて、その期間は仁安2年(1167年)から承安1年(1171年)まで務めました(※2)。
また、仲綱は父の頼政と同じく和歌の才があったようです。
鴨長明の『無名抄』によれば、仲綱がかつて藤原(九条)兼実主催の歌合(和歌を読み合ってその優劣を競う会)の際に、言葉を誤って読んでしまったところ、藤原重家から酷評されてしまうということもあったようですが、平安時代末期、後白河法皇の院宣(法皇〔院〕の命令書)によって編纂された勅撰和歌集『千載和歌集』には仲綱の歌6首が入選しています。せっかくなのでその6首を挙げておきます。
(訳をつけるのは無粋かと思いますが一応・・・。)
和歌
花の歌とてよめる
山ざくら ちるを見てこそ 思ひ知れ たづねぬ人は 心ありけり
(山桜が散るのを見て思い知ったよ。桜を見に来ない人は心ある人だったのだと) (千載・春歌下・97)
三月尽のこころをよみ侍りける
身のうさも 花見しほどは わすられき 春のわかれを なげくのみかは
(わが身の憂いも桜を見ている時は忘れることができた。単に春の季節との別れを嘆いているだけか、いやそうではない)
(千載・春歌下・128)
住吉社の歌合とて、人々よみ侍る時、旅宿の時雨といへる心をよみ侍りける
玉藻葺く 磯屋が下に もるしぐれ 旅寝の袖も しを(お)たれよとや
(海藻を葺く海人の小屋の下に漏る時雨よ、わが旅寝の袖も〔海人の袖と同じように〕濡れよというのか)
(千載・羇旅歌・527)
題知らず
心さへ 我にもあらず なりにけり 恋は姿の 変るのみかは
(心さえも私ではなくなってしまったようだ。恋は姿を変えてしまうだけか、いやそうではなかったのだ) (千載・恋歌四・878)
摂政右大臣の時、百首歌よませ侍りける時、逢ひて逢はざる恋をよめる
すみなれし 佐野の中川 瀬だえして 流れ変るは 涙なりけれ
(住み馴れた佐野の中川が瀬絶えして、流れが変わって逢う瀬がないことは涙であるよ) (千載・恋歌四・890)
月を見て個人を恋ふといへる心をよめる
先立ちし 人は闇にや まよふらむ いつまで我も 月をながめむ
(先立って亡くなった人は闇の中を迷っているのだろうか。私もいつまで月を眺めていられるだろう・・・。) (千載・雑歌上・998)
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