見出し画像

【治承~文治の内乱 vol.5】 源仲綱と平宗盛の名馬

治承じしょう文治ぶんじの内乱の史話、第5回です。

以仁王もちひとおうの乱は従来『吾妻鏡あずまかがみ』や『平家物語』の記述もあって、頼政らが主体となって以仁王を説得して起こしたと考えられてきました。しかし、近年多くの歴史の先生方が指摘されているように、乱の主体は頼政よりまさ仲綱なかつなではなく、以仁王自身であったことがわかってきました。

ではなぜ頼政・仲綱は以仁王方に参加したのか。頼政・仲綱は平家全盛の世にあっても比較的厚遇された存在だったことがうかがえ、これといった謀叛の動機が見当たりません。それでも彼らは反平家をかかげて以仁王方につきました。

これについても歴史の先生方の指摘によって徐々に見えつつあって、平安時代の武士の特徴をうまく捉えた大変説得力のあるご見解も出されています。

ですが、今回はそのお話をする前にこれまで知られていた頼政挙兵の動機に繋がる出来事ということで、『平家物語』に載っているエピソードを紹介したいと思います。今回参考にした『平家物語』は「延慶本」になります。
(例によって現代語訳ではありませんので、ご了承ください。)


源頼政の嫡子・仲綱は「木下このした」と呼ばれる鹿毛かげ(※1)で尾髪まで艶やかに、たくましい名馬を所有していましたが、ある時、平宗盛たいらのむねもりがその馬をしきりに所望しました。

仲綱はこの名馬を手離すことがどうにも惜しく、養生のために田舎へ放牧に出してあるため、養生が済み次第取り寄せて進呈すると一首の歌を添えて返答し、なんとか宗盛の申し出をかわしたはずでした。

しかし、程なくして放牧へ出されているはずの木下が仲綱のもとにあり、都にいるということが宗盛の耳に入ります。そして、宗盛は再度仲綱に木下を所望しました。
「その馬を賜ってずっと手元に置いておこうというわけではない。ただ一目見たいと思ったのだ。やがて返し奉る」

窮した仲綱は、父・頼政にこのことを相談しました。すると頼政は、
「どうして進呈しないのだ。たとえ大金を払って手に入れた馬であろうとも宗盛様の所望とあれば惜しむべきではない。とにかく早く進呈せよ」

仲綱は力及ばず、「木下を進呈します」との文を添えてついに宗盛に進呈しました。

しかし、宗盛は最初のおり、仲綱が馬の進呈を渋ったことを憎らしく思い、人々がその馬を見にきた際には、
「仲綱め取って繋げ」「仲綱めにくつわをつけよ」「散々に乗れ」「打て」と木下を“仲綱”と呼んで、憎しみを馬にぶつけたのです。

このことを聞いた仲綱は、
「情けないことでございます。こうも惜しみながら手離した馬を宗盛のもとへ遣わしてみれば、一門や他門の者たちが集う酒宴の席にて、『その仲綱丸に轡つけて、引き出して打て、張れ』などと申して、散々に悪口をいたしているのです。人にこうも言われて、世に長らえ、人に合わせる顔がございますでしょうか。自害をしたく思います」

と父・頼政に告げました。

頼政は頼みとする息子を失い、自分が長らえて何になろうかと思い、息子・仲綱の無念の意志を汲んで、宮(以仁王)も誘って謀叛を起こしたのです。誠に憤りを含むのも道理です。


ということで、『平家物語』では頼政・仲綱の謀叛の動機は平宗盛との馬をめぐるトラブルということになっています。
確かに当時の武士にとって馬は大切なものであったことはわかるのですが、これだけで謀叛の動機とすることは弱いと思うのです。さらに以仁王が平家から冷遇されていたとは言え、以仁王を謀叛に誘う理由もよくわかりません。

ちなみに、この仲綱の馬の話には続きというか、事の顛末のような話があります。せっかくなので、それもお話ししたいと思います。


頼政・仲綱父子に従った渡辺党の武士の中で、渡辺競わたなべきおうだけはともに三井寺へ同行できませんでした。他の渡辺党の武士たちは、
きおうにこの事を知らせないで、どれほどわれらは恨まれるのだろう」
これを聞いた仲綱は、
「よしよし、差し支えあるまい。競の邸は宗盛の邸に近いから、決起のことが聞こえれば何かと都合が悪いことであろう。知らせずとも競ほどの者のことだ、遅れてこちらに参るであろう」
 
競は頼政・仲綱父子ならびに渡辺党の決起のことを聞いて、
「情けなくもこの決起を知らせてくださらぬものかな。すぐにでも三井寺へ参ろうと思うが、わが邸は右大将宗盛の邸の向かいである。馬よ鞍よとしているうちに、この決起に加わることに気づかれてしまっては都合が悪いであろう」
と動かずにいました。

その向かいの宗盛は下人を呼んで、
「向かいの邸に競はいるか。見てこい」
やがて下人が戻ってきて、
「決起に加わる様子ではありません」
宗盛は不思議に思い、もう一度見に行かせましたが、やはり決起に加わる気配はなさそうです。そこで宗盛は競を呼び寄せました。

参上した競に宗盛は、
「どうしてだ。三位入道さんみにゅうどう殿(頼政)は三井寺へと向かったと聞いているが、おのれは行かんのか?」
競は、
「はい。日頃は他の者よりも随分と頼政殿に仕えて参りましたが、今このように留め置かれた上は、追って参るには及びません」
そこで宗盛は、
「それならば我に仕えよ」
と誘い、競はこれを承諾。宗盛に仕えることになりました。

宗盛はかねてより競を召しかかえたいと思っていたところ、好都合にも召しかかえることができたことを喜んで、競に酒をふるまい、数々の引き出物を与えました。中でも黒革縅くろかわおどしの鎧に、弓箭きゅうせん、太刀などを与え、その上なお『遠山とおやま』という秘蔵していた馬に鞍を置いて、それを与えました。

競は、宗盛の数々の厚遇に驚きましたが、
賢人けんじんは二君に仕えず、貞女ていじょは二人の夫を持たない」
と、これまで頼政・仲綱に受けた恩を忘れるまで気持ちを変えるに及ぶことはありませんでした。

宗盛は度々競を呼んでは、その所在を確認していましたが、競は夜も更け、人々が寝静まったころを見計らって、与えられた鎧をつけ、兜の緒をしめ、馬にうち乗って、鞭をあげて三井寺へ馳せ向かいました。

やがて競は三井寺に到着しました。そして渡辺党の同僚らに会うと、
「どうして、あなたがたは私を捨て置いて、知らせてくださらなかったのだ」
と責めました。同僚たちは、
「知らせようとは思ったが、守殿かみどの(仲綱)が、『宗盛の邸に近いから都合が悪いことであろう。競は大した人物なれば、知らせずとも参るであろう』と仰せになったので、致し方ないと知らせなかったのだ」
と釈明した。そこで競は、
「それでは主人はこの私を見捨てられたわけではないのだな」
と喜び、頼政・仲綱の前に参上して、
「競はもってのほかにも主を疑うという悪事をいたしてしまいましたが、大将殿(宗盛)の鎧、兜、馬、それぞれ取って参りました」
と事の次第を話したうえで、
「人(宗盛)の束ね集めた物を取ってきたことこそ悪事なのでしょうが」
と付け加えました。
それを聞いた頼政・仲綱を始め、そこにいた者たちはみな一斉に笑いました。

さて、競が宗盛より与えられた遠山を、三井寺にて尾髪を切り、『宗盛』という札を付けて京の方角へと追い放ちました。これはかつて仲綱が名馬『木下』の一件で受けた屈辱を晴らすためです。

遠山はとても勇ましい屈強な馬あったため、京へ戻って京中を馳せ歩きまわりました。
これを見た京の人は、
「ああ情けない。先年大臣殿(宗盛)の許に『仲綱』という馬がいたのさえ、あきれるほど驚くことと思っていたが、今また『宗盛』という馬が迷い歩くとは不思議なことだ。世の末にはこのようなみっともないこともあるのだな」
と言ってあきれたのです。


というわけで、源頼政・仲綱に従う渡辺党のきおうは、当初から図っていたわけではありませんが、「木下」の一件の意趣返しをしたことになっているです。

まぁ、かわいそうだったのは「木下」「遠山」の2頭の馬かな?ということで(笑)
最後まで読んでいただきありがとうございました。

注)
※1・・・体毛は赤褐色か茶褐色ですが、四肢とたてがみ、尾は黒い毛の馬

(参考)
櫻井陽子編 『校訂 延慶本平家物語(四)』 汲古書院 2002 年

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか? いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます。