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海外在住の日本人が言うことには

正式には、『海外在住の日本人が、なぜわざわざ日本や日本人を批判しているように見えるのか』について。

それは、決してディスリスペクトでなく、いま現在日本に住んでいる人に、

「気づいていないだろうけど、実はあなたは大変な思いをしているんだよ」「もっと楽になれる方法があるんだよ」「これは危ないよ」と伝えたがっているから、という話。


距離を置いて確信したことへの複雑な思い

海外在住の有名日本人ブロガーは、良くも悪くも、「日本批判」という点で目立っていると思う。日本の制度や日本的思考を、客観的にわかりやすく分析、色々な切り口で表現し、同意と批判とを受けている。

過激な言動でおなじみのめいろまさん然り、フランスに移住しているタレントの牧村朝子さん然り。その他にも起業家や研究者や、情報プラットフォーム的なサイトを見れば、同様の「海外在住ブロガー」は多分野にわたり、どこにでもいるもよう。

わたし自身、日本の方に向けて、「気づかぬうちに常識に縛られているから苦しいのであって、それから解き放たれてもっと楽になろうよ」というコンセプトの記事をささやかながら書かせてもらっており、思えばめいろまさんの「世界のどこでも生きられる」や、「自分のアタマで考えよう」のちきりんさんなど、海外洗礼の有力ブロガーたちはこのような主旨を軸としているようだ。

海外組とひとくくりにしてしまうが、我々の言うことは、概ね「日本にいる時、実は自分はとても辛かったんだ」「今も苦しんでいる人がいるに違いない」「気をつけて、気づかないうちの洗脳されてますよ」であり、

海外に出たことで見えない鎖に気づき楽になれた自分と、それでもなおその呪縛から完全には解き放たれずにいることの、葛藤のさけびでもあるのだと思う。要するに、繊細な人が語る、トラウマ体験からの脱却記のようなもの。

海外在住の日本人の中には、気にしない人は、ほんとうに気楽に、日本のことを忘れて今を生きている人もいる。現地の日本人と関わろうともしない。こちらが住みやすいというのなら、わざわざ日本を振り返って煽るような行為を、なぜ彼らはするんだろうと。めんどうで、ときに自分にとっても痛いだあろうことをわざわざ持ち出して、批判覚悟で投げかけなくても、日本のことは忘れて、生活を思い切り楽しめばいいじゃないかと思ったりもする。

わたし自身もまたその渦中にいるので、揺らいでいる部分がたくさんある。けれどふとしたときに、自分が持っていた差別的思想、おそらく日本で身に着けてしまった常識論に気づいて、苦しくてたまらなくなる。そうしたらもう、社会派の名を借りて、その思考に向き合って折り合いをつけるために、こういう記事を書くしかなくなる。自分と、そして穏やかな態度でこれを読んでくれている人のために。

わたしの場合、ありがたいことに、この稚拙な文章でも受け止めて頂いたり、共感してもらうことがとても多い。しかし有名過激ブロガーの方の記事への批判として言われることは、「大きなお世話」「日本を捨てた人は黙っていてほしい」「愛国心がない」というようなもの。それを聞くと、わたしもつらくなる。

わたしは、開発に集中するために海外に拠点を置いているとは言いつつ、多くの常識論で成り立っている日本で生活をすることが本当につらくて、基本は日本を離れている。逃げといえば逃げだろう。そこを、国内にいて色々を我慢しながら生きることが愛国だと言われてしまえば、返す言葉もない。(が、考えのない受動的な犠牲感覚は国を滅ぼす、とも思う。)

それでもわたしは、自分のやり方で生きていくしかできないし、わたしなりの思いで、海外での自分の体験や考えを伝えずにいられない。


他のことも知って、それでもそれを選ぶかどうか

たとえばこちらに来てすぐ、フィンランド人の男性に言われた中で、衝撃であったこと。

「僕は日本の漫画とか好きだけど、なんで日本の雑誌についている女の子の写真には、いつも年齢やスリーサイズがついてくるの?子どもみたいに若い女の子でもだよ?あれを見るとがっかりする。すごく性差別的だよね」

言われた瞬間、あまりのショックに凍り付いてしまった。あまりに日常的すぎて、当たり前すぎて、その異常さに気づけなかったことに。

たしかにあれは、おかしい。そういえばイギリスにもフィンランドにも、そんな習慣はなかった。自分は社会問題を意識しているほうで、とくに日本での子どもの性犯罪被害の現状を、かなり真剣にみつめてきたつもりだったのに。おかしいと思えていなかった。

わたしたちの生活には、実は性的感情を煽るものがあふれていると。しかもそれが、対象が子どもであったり、子どもの目につくところに露出しすぎてしまっているが、あの数字もまさにその象徴であると。それに気づけなかった。気づかないことは、それを容認してしまっているようなものだ。ものすごく、自分が恥ずかしくなった。それから、日本に行くときにはより高くアンテナを張るようにし、NPOが主催するセミナーにも出かけたりしている。


たかが数字、ではない。とくに編集されたメディアにおいて、目的のない情報はなく、常にだれかによる何らかの意図が背景にある。だから、そこに潜んでいるものを感知して、知らない人間に踊らされないよう気をつけなさいよと、池上彰さんだって、中学生向けの文章でそう書いている。

断定するが、スリーサイズは性的妄想を喚起するための記号で、14才やそこらの女の子のそれを、ときに水着姿の写真とともに公開することは、彼女たちを性的対象として見せ、商品利用しようとするメディア側、プロダクション側の意図があるわけだ。そしてそのスリーサイズと併せて妄想させるがゆえに、その雑誌は売れていく。これは、おとなによる一方的な性搾取である。

いつも見ていいて慣れている、そもそも嘘だろうしスルーしているから、「こんなの、普通だろ?」と言ってはいけない。

いつも見ていて慣れているから、こわいのだ。沁み込んでしまっているのだ。未成年のスリーサイズと水着がおかしいと思えないほど、わたしたちは腐っちまってるのだ。(なぜおかしいのかは子どもの権利条約 / Convention on the Rights of the Child を読みましょう。18才未満の子どもは不当な取扱い又は搾取(性的虐待を含む。)をされてはいけない、いかなる場合でも守られなくてはいけないと、国連が定めています)

スリーサイズが性的?そうか?と思われるのなら、その証拠に、日本で講義やワークショップなどさせてもらっているわたしが、たとえば写真の下の自己紹介欄に経歴と併せてスリーサイズを加えてみたとしたらどうだろう。性的な想像を引き起こす要素以外のなにものでもないだろう。

性的なにおいは講師業の場にふさわしくなく、一発で人を不快にすることができる。信頼を失い間違いなくこれまでのクライアントは離れていく。「何考えてるの?」「そういうの求めてないから」と。たとえ仕事がもらえたとしても、「この後どう?」と脂ぎった笑顔で言ってくる人ばかりになるであろうことは、想像にかたくない。

伊勢志摩の海女さんキャラクター17才設定が「性的すぎである」、と騒がれている問題も、「こんなキャラクターは今時当たり前だろ」「ひがみか、騒ぎすぎ」と一笑している人々こそが、わたしには恐ろしい。ありふれている、当たり前だからという理由で疑問にすら思わないことがだ。

彼らが日ごろ嘲笑しているメディアや広告にこそ、彼らは踊らされている。日本のアニメや漫画は面白いかもしれないが、同時にパンチラインプリンティングメディアだ(正しい箇所で区切って読もう)。日々刷り込まれているからこそ、胸を強調していることやあえて体重を記すこと、彼氏募集中<3に性的な意図はないと、自信満々に言えるのだ。

では一体なんの目的でその数字やシンボルはあるのか、例のフィンランド人男性にきちんと説明できるだろうか。


こういうふうに、ある外国の人のひとことで、気づけることがある。

わたしは日本人として、彼らの言葉にショックを受け、恥と感じ、ある意味媒介として、その体験を伝えることができる。そうしたら、「実はおかしいと思っていた」と賛同してくれる人が出てくる。おかしいと気づけば、変えられる。世の中を良くすることができる。

終身雇用や学歴至上主義、専業主婦、男性の社会的負担、その他のジェンダーロール、大量消費や物質主義といったものが、ある人々にとっては苦しみのもとである、と気づかれ、らくになろうよ、と動き出してきたように。


世界の色々な文化や考えを知って、それでも自分がそれまでの考えや慣習を変えないのならば、自分で選び取ったものとして、それでいいと思う。

もっと言えば、宇宙の中に地球というものがあり、そこにあるたくさんの事象を知り、それでもあえて、浮いている小さな島のうちのひとつの地域を選んで生きているのだ、と自認しているのと、ただ目の前に見えることだけを世界の全てと受け入れているのでは、行動範囲が同じでも、考え方、人生が全く変わってくるのではないだろうか。


女性の写真に年齢やスリーサイズが添付されるような世の中と、そのようなシンボルが加えられない世の中。今あたらしい視点を知って、その上であなたは、どちらの社会に住みたいだろうか。

またもしあなたが男性だとしたら、自分の妹や娘に、どちらの社会に住んでほしいだろうか。


発信者が気をつけなければならないこと

わたしは何も、海外産まれの文化や考えを全肯定しているわけではない。理想郷など世界中のどこにもない、きっとそこに「人」がいるかぎり。

それでもあきらかに、あっ日本おかしいな、と思うことがあるのだ。それは、今回の例のように気づかずに搾取をされているケースなど、「それによって苦しめられている人がいるのに、気づかれていない、ゆえに変えようとされていない」事例につきる。

そしてそれは、性別や年齢に関係なく、人としての自由や尊厳を侵されるようなこと、納得いかないこと、美しくないことが、それらを黙ってみているのが、わたしはきらいなのだ。


海外ブロガーも今やメディアに近い勢力を持ち、好き勝手に書き散らしながらも、責任を逃れられるというような微妙な立ち位置にいる。

ひっそりこのnoteを書いている(はたしてブロガーと言えるのかどうか)わたしもできるかぎり普遍的な視点を持って、読む人の心に添えるようにしているが、いずれも情報というものは、それを作る人の意図があり編集されている。

自分の主張を伝えたいばかりに、「フィンランドでは普通のこと」などとして、事実の一部のみを切り取って編集したり歪曲して伝えないように留意はしているつもりだ。(もししてしまったら、反省をして、なおします)

常識イズムがいやで日本から出たというのに、また海外の「普通」にとらわれるという、逆・常識論の押しつけをしたくない。


たとえば、「海外で女性はおごられるのが普通」、「いや普通はおごられない、なぜなら海外の女性はみんな自立しているから」という旨の記事の応酬も昔あったが、おごるおごらないはその人の経済事情や性格、相手との関係性であって、海外だからどうこうというわけではない。自分の主張の補強材として、都合の良いところを切り取って普通はとコーティングして利用しているだけだ。

「それはなぜなのか」「おごるとしたらなぜなのか、どんな人で状況なのか」「どれくらいがおごるのか」「みんなとはどういう観点なのか」併せてきちんと、できればデータも併せ背景事情も説明をしなければ、「ママ― あれ買ってー」「だめよ、高いんだから」「買ってよー、みんな持ってるのにー!」「みんなって誰よ!」という子どもと全くおなじになってしまう。

自分の言いたいことにあわせて、「ニューヨークではこう…」「イタリアではこれが普通…」と、なぜか国を変え品を変え理論武装をしようとしている、根拠がうすっぺらい人もたまにいるため、海外ブロガーの記事も、どんな意図で書かれているのかな、どこか不自然なところはないかと、わたしのものも含め気をつけて読んでもらいたい。

あやしいのはたいてい、実体験からの言葉ではない、雇われでおしゃれっぽい記事を書いている日本在住「記者」の人が多いように見えるけれど。


どの海外ブロガーにも、程度はあれど日本に対する愛情があるからこそ書くし、熱くなるのだろうけど、メッセージはやはり全て受け手次第だ。

それを読んで感じた自分の反応、一般論・常識論ではなくて自分の心の声を探して、自分はどう思うのか、気になる話題にはじっくりと思考をめぐらせてみてほしい。

そしてやはり、発信がわは結論までをはっきり断言するよりは、ある程度の余裕をもたせて「判断をゆだねる」「考えてもらう」ほうが、ずっと思いやりがあるのではないかな、と感じる。



読んでいただき、ありがとうございました。久々の投稿で緊張しました。

二ヶ月の日本弾丸出張のあいだは当然noteも書く余裕がなく、その後こちらに戻って一ヶ月以上(今も)開発にいそしんでいたのですが、日本で感じたことが多すぎて、あまりに複雑にからまりすぎて、何を言うべきか未だにうまく整理できていません。

でも少しずつ書きながら、まとめていけたらと思っています。おつきあいをいただければ。

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