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悪人正機

善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。
 しかるを世の人つねにいわく、「悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」。
 この条、一旦そのいわれあるに似たれども、本願他力の意趣に背けり。               そのゆえは、自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心欠けたる間、弥陀の本願にあらず。
 しかれども、自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり。
 煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。
  よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰せ候いき。

【司馬遼太郎と宗教より】
自力で解脱を目指す善人のほうが先に救われるべきだと世間では思われがちだが、
それは違う。
阿弥陀仏はとても自分では悟れない悪人を救う仏だというのです。
いわば、自分で泳げる者よりも、泳げない者を先に救うということです。
善人は『自分でやれる』と思っているから、仏におまかせする心がとぼしいんですね。
ちょっとわかりにくい理屈ですが、ここに宗教的パラドックス(逆説性)があります。
宗教は、世間の常識とは異なる価値観や認識を逆説的に提示することがある。
「それが宗教の存在意義だともいえるでしょう。
世間とは別の扉が開くからこそ、救われるのです。
ただし、日常を一気に壊す危険もはらんでいる。
宗教の体系はそれほど強烈です。
親鸞もまた、世俗とは厳しく対峙し続けた。
流罪に処せられることにもなった。
とにかく、終生、自分の抱える影をごまかさなかった人物です。
『仏の救いから逃げ続けるのが私の本性だ』といい、
『その逃げている自分を後から追いかけてきて捕まえるのが仏だ』
という。
最も仏から遠い人であり、最も仏の慈悲に抱かれた人である、そんな印象を受けます」

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