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キッシンジャーの少年時代

ハインツ・アルフレート・キッシンガーは1923年5月27日、ドイツ・バイエルン州ニュルンベルクの郊外、フュルトに生まれた。父親は名誉ある教師であり、善良で教養があり、膨大なレコードのコレクションとアップライト・ピアノを持っていた。母は機転が利き、たくましく、実際的な女性だった。そして二人とも生粋のユダヤ人だった。生まれたハインツも当然のように、正統派シナゴーグに通い、トーラー(ユダヤ教教説)を学んだ。すでに反ユダヤ主義は蔓延していたが、ハインツ少年は地元のサッカーチームのスタジアムで熱狂的に応援したり、ドッジボールに興じたり、何よりもいつも本をわきに抱え、読書に没頭していた。

ハインツが生まれた1923年は、ニュルンベルクの反ユダヤ主義週刊新聞『シュテュルマー』が創刊された年であり、ナチスの地方支部長はユダヤ人を「黴菌」「汚れ」と呼び、その絶滅を叫んでいた。1935年、ニュルンベルク法の成立により父親は教職を追われ、失意のあまり無気力な男に成り下がった。母親は友人から避けられ、プールに行くのにも禁止されたことに憤慨していた。そしてハインツ少年は国立高等学校への進学をユダヤ人という理由だけで拒否された。サッカーを見に行くどころか、庭から一歩も出られず、ナチス青年員たちが地元少年を連れてユダヤ人を罵りながら練り歩くのを、じっと耐えているしかなかった。ハインツ少年はますます内向的になり、読書の世界に逃避するようになった。

1938年8月20日にキッシンガー一家はドイツを離れ、アメリカにわたる。その3か月後、ドイツのシナゴーグの大半が暴徒により破壊された。そして第二次世界大戦が勃発、ユダヤ人大虐殺が渦巻いた。少なくとも600万人のユダヤ人が殺され、キッシンガー一家の親戚の少なくとも13人がガス室に送られ、あるいは強制収容所で亡くなった。

ニューヨーク・マンハッタンに着いた15歳のハインツ少年は、生まれてはじめて道を歩くのにビクビク怯える必要もなくなったことに気づいた。アメリカ愛国者となった瞬間であった。

ハインツ・アルフレート・キッシンガー、のちのアメリカ国務長官であるヘンリー・キッシンジャーの少年時代の話である。

ニクソン大統領とアメリカ外交でタッグを組み、イデオロギーを超えて中国と和解し、ソ連とのデタント(緊張緩和)を実現させた。ベトナム戦争終結の道筋を着け、1973年にはノーベル平和賞も受賞している。その一方で、ニクソンとともに側近の電話に盗聴器を仕掛けたのも彼だ。


キッシンジャーと毛沢東(Wikipediaより)

パワーの均衡を重んじ、「秩序か正義か、どちらか選べといわれたら、私は秩序を取る」と言ってのけたキッシンジャーの政策は「現実主義政策リアルポリティーク」と呼ばれる。一方彼を「理想主義者」と評する研究家もいる。
「理想と現実」といわれるが、私は両者は矛盾しないと思う。大虐殺の恐怖というトラウマを抱えた少年は、やがて冷徹な現実主義者リアリストになった。だがそれはあくまでも手段であって、目的はあくまでも、「平和」という理想なのだ。現実主義者であり理想主義者である彼の思想は、彼がいくども否定しようとも、少年時代の経験から生まれたといっていい。

参考文献
ウォルター・アイザックソン『キッシンジャー 世界をデザインした男』
大嶽英夫『ニクソンとキッシンジャー 現実主義外交とは何か』

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