多々良浜ってどこ?「多々良浜の戦い」の古戦場跡を歩く
私の南北朝時代に関する知識は児童書の域さえ超えていない。太平記の原典どころか、小説も、ドラマも、見たことがない。
おぼろげに覚えているのは、隠岐から再起を誓う後醍醐天皇とその忠臣・楠木正成くらいである。いったいどんな史観の児童書を読んでいたのだろうか。
というわけで、今回は、ろくに知りもせず、調べもしないままに、とにかく「多々良浜の戦い」の古戦場跡(福岡市東区)に行ってきた、という話である。
前日に会社の従業員さんに「明日、多々良浜に行こうと思ってるんだけど」と言ったところ、怪訝そうに「多々良浜って?」と聞かれました。東区の、多々良川の、というと「ああ、多々良(多田羅?)ね」とやっとわかったみたいです。従業員さんは福岡住み30年なわけですが、後醍醐天皇に反旗を翻し、いったん九州に逃れた足利尊氏が、敵方の大軍を破って再起を果たした「多々良浜の戦い」を知らない(私も知らなかったわけだが)。再三再四言っていますが福岡の人は意外に歴史に興味がないみたいで、それはいいとしても、「多々良浜」という地名がピンとこなかったわけですね。
というのも現在、多々良浜なんて地名は存在しない。というわけで「多々良浜の戦い」をWikipediaで調べたところ、「多々良浜の古戦場の碑」なるものが、「流通センター」の一角にあるという。まあ多々良浜というんだから、多々良川の河口にある貝塚駅から流通センターなる建物を目指せば余裕でしょ、と思って出かけました。
天神から地下鉄貝塚線の終点・貝塚まで7駅。東京などとは違って、九州一の都会といえども地下鉄で12分も乗れば市街地の東端についてしまう。
貝塚駅から東へ都市高速下の流通センター通りを歩く。貝塚は箱崎ふ頭の入り口なので、道路はひたすらトラックが走り、道沿いには大手から中小の倉庫が並ぶ。
ところが、多々良浜というから海岸の埋立地さえ超えれば見えてくるだろうと思っていたら、歩けども歩けども「流通センター」は見えてこない。歩くこと30分、やっと「流通センター入口」という交差点が見えてきた。ところが「流通センター」という建物はまた歩けども歩けども見つからない。結局引き返して、流通センター入口の交差点まで戻ってきた。
…どうやら「流通センター」というのは団地名のようで、各社の倉庫の集積地の名称らしい。というわけで倉庫通りを一軒一軒確認しながら歩いていると、みつかりました。「多々良浜古戦場の碑」。日本通運多の津物流センターの角地のようですね。結構目立つ通りの角にありました。
なんでこんな無駄話みたいな話をしているかというと、現在の多々良川の河口からは遠いんですよ。徒歩30分。最初は「福岡市ってすごく広い土地を埋め立ててるんだなあ、すごいなあ」と思っておりました。
ところがです。説明板には次のように書いてありました。
仮説ができました。多々良浜の戦いは、実際は海辺の戦いではなく、多々良川の河口から遡ること2キロの川岸で戦闘が起きたわけで、もともと多々良浜なんて浜辺はなかったのではないでしょうか。
ちなみに石碑もあって、次のように書かれています。
というわけで、碑の場所は民間伝承で菊池方の墓地という言い伝えだったのですね。左岸に陣取った菊池方の墓というのも説得力があります。
また30分ほど引き返してきて、東の名島方面まで歩き、現在の多々良川河口近くの名島橋まで来ました。すると地図があり、当時の海岸線が示されていました。
やっぱり。当時でも海岸線は名島橋あたりだったのです。だいたい名島橋の右岸に名島神社や名島帆柱石などの古い史跡があるのに、海岸線がもっと南だったはずはありませんね。
というわけで多々良浜という浜辺はないし、実際は多々良川両岸で行われた戦争だったのです。
ちなみに多々良川を調べてわかったこと3つ。
・敗れた菊池武敏は熊本に帰り足利方と戦い、1915年従三位を与えられたこと。
・博多の玄関口であるこの地では戦国時代にも何回も激戦が行われており、1569年には毛利と大友の戦いが半年間にわたって行われたこと。
・多々良川河口に名島飛行場があり、1931年にかのリンドバーグが降り立ったこと。
疲れたけれど、なかなか収穫のあった一日でした。
追加
多々良浜の「浜」が海浜というのは、私の先入観かもしれません。川岸も浜と呼んだりするのかな。
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