見出し画像

悲劇の双子都市?福岡・博多

福岡と博多の区別は難しい。NHKの地理・歴史探訪番組「ブラタモリ」の博多編でも冒頭、アシスタントの桑子真帆アナが「博多は博多というエリア。福岡は福岡県」と答えて、不正解とされていたが、本当に不正解なのだろうか。博多はエリアの一つには違いないし、福岡は福岡県を指すことだってある。

那珂川を挟んで西が福岡、東が博多というのが模範解答だろう。しかしそれは江戸時代に限ってのことである。福岡の海湾は博多湾だし、博多区は福岡平野にある。福岡市の空港は福岡空港だが、博多区にある。一方で、博多駅周辺は博多といわれ、天神周辺は福岡と言われているが、天神には「博多大丸デパート」がある。こんな話はきりがない。

黒田氏が江戸時代初期に、かの地を「福岡」と名付けなかったら、こんな混乱はなかった。

福岡は関ヶ原の戦いのち筑前に入封された黒田氏が、博多の西・福崎の地に城を築き、黒田氏ゆかりの備前の地名から「福岡」と名付けたことに由来する。そう、福岡はそもそも、岡山県の地名だったのだ。

地名はアイデンティティに関わる問題である。黒田氏は武装して筑前に入部し、「筑前お国入り」ならぬ「筑前お討ち入り」と呼ばれたことはすでに述べたが、地元の博多商人も博多商人で、一部の人々は「下に、下に」と土下座を求められても、土下座を拒否して一行を迎えたともいう。そんな強情な博多人に対して、黒田氏は藩名を地元の人々とは縁もゆかりもない福岡と名付けただけでなく、博多の地も福岡と呼ぶように強要したという。これは博多の人々の反発を招いたため実現しなかった。

黒田氏は最初の居城・名島城(福岡市東区)から、多くの石垣の石や門・櫓などを福岡に移築した。これは「名島引け」とも呼ばれ、福岡城址に今も「名島門」が残っている。だが誘致したのは石や建物だけでなく、名島の商人も福岡に誘致し、博多とは一線を画した。昭和の代まで福岡部に「上名島町」「下名島町」があったのはその名残である。島井宗室、神屋宗湛といった秀吉ゆかりの博多豪商を御用商人から外し、大賀家を黒田氏の御用商人に据えてもいる。

西の福岡部と東の博多部のあいだの那珂川には、中島橋を架け、たもとには枡形門を配した。中島橋はいつ敵が攻めてきても壊せるように板一枚の軟弱な作りであり、明治時代には山笠の車が通れないので架け替えを要望されたほどである。一方、中島橋を渡ると枡形門があるが、ここでは取り締まりがあり、往来は厳しく制限されたという。中島橋と枡形門でしか陸上では行き来できなかったために、福岡部と博多部は非公式の小舟で渡ったという。これでは福岡部と博多部の交流・融合は図れなかっただろう。

こうして福岡と博多は「両市中」と呼ばれ、双子都市の道を歩むことになる。

江戸時代、博多・福岡ともいち地方都市として低迷。福岡・博多の人口は5万3000人(1650年)、4万3000人(1750年)、3万2000人(1850年)、4万1635人(1873年)と推移した。1万7000人(1650年)、2万9000人(1750年)、4万1,000人(1850年)、4万4620人(1873年)と人口が増え続け、明治初期に福岡・博多を逆転した熊本市とは対照的である。

これは、黒田氏の当初の都市計画に問題があったからではないだろうか。
なるほど、福岡城は、熊本城の加藤清正から「俺の城は3日か4日で落ちるけれど、この城は30日、40日は落ちない」と言われるほどの堅城となった。しかし福岡・博多の両市は、都市としての広がりを阻まれた。
福岡城は北側の城下町から見て鶴が両翼を伸ばしているような美しい姿から「舞鶴城」とも呼ばれたが、その東西の長さから城下町の南側への発展は阻まれた。北は浜、西は大濠(現在の大濠公園)、東は那珂川(中島橋・枡形門)。こうして、主要な城下町は、福岡城の北側のわずかな土地に縛られることになったと思えるのである。そして鎖国により一地方都市として出直しを迫られた博多も、福岡との交流が制限されたために、発展の道が閉ざされたのではないか。

多くの歴史入門書には、福岡・博多の双子都市化は黒田官兵衛・長政の大計であり、そのため福岡・博多は発展し、明治時代へと接続されたと書いてある。しかし、黒田官兵衛・長政は、福岡・博多の融合による経済発展を本気で考えていたのだろうか。

黒田官兵衛・長政は当初、福崎の地だけではなく、博多部の箱崎や住吉を築城の候補地に入れていたという。もし博多部に築城し、一極都市としての道を歩んでいたなら。そう思いを馳せてしまうのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?