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福岡の県民性は確かにある―個人的な体験から―

業界誌記者時代、ドイツのハイデルベルグという町で、ドイツ人と中国人と一緒にビジネスランチをしたことがある。私はドイツ語どころか、英語も極めてたどたどしいので、会話はもっぱら同業者の日本人に任せて、相槌を打つだけにした。
ところが、その日本人がデリカシーのない人で、「東の都は東京、北は北京、南は南京といいまして、麻雀でいうと東西南北(トーナンシャーペイ)なんですよ」とまくしたてた。中国人の方は黙られていたが、微妙な雰囲気になった。すかさずホスト役のドイツ人の方が「日本にも地域性があるんですか?」と訊かれた。
私も、その日本人も「ありますよ!」と強く言った。するとドイツ人はひどく感心して「例えば東京と福岡でも違うんですね。不思議だなあ」と言われた。
「東京と大阪でも違います」と私たちは言った。私は「東京はもともとポリティカルシティで、そのため官僚的で、冷静なんです。大阪はコマーシャルシティなので、陽気で開放的ですね」と言いかけて、やめた。ますますプリジャディス(偏見)の問題に深入りしそうだったからだ。

祖父江孝男氏の『県民性』という本がベストセラーになったり、『秘密のケンミンSHOW』という番組が長寿番組になったりと、県民性はしばしば話題になる。特にブライダル関係では結婚相手の性格や地元のしきたりに敏感なためか、雑誌やネットにもしばしば登場する。
県民性は確かに存在するような気がする。大阪は実際にコメディアンが多い。一方、東京の人は冷たい人が多い、とは、九州の人がよく口にする言葉である。

ところが、福岡はどうか。前述の『県民性』によると、福岡県は「全体的に明るく開放的で進取性があるが、中央への事大主義とその裏返しの対抗意識、強固なとざされた団結性」という県民性があるという。開放的なのかとざされているのかよくわからないが、個人の性格は開放的だが、コミュニティとしては閉鎖的ということなのだろう。

福岡県は筑前・筑後・豊前をまたぐ全国でも珍しい県である。筑前と豊前の間の炭鉱で栄えた筑豊地方もまったく違う。北九州も特殊である。だいたい北九州市は小倉・門司・若松・八幡・戸畑の地域性の異なる5市が合併してできた市である。
そして、福岡市である。福岡と博多が異なるのは再三述べてきたとおりである。それが一つ。もう一つは明治初期には4万人強だった福岡市は、現在は160万人を突破している。後述すると思うが、福岡は福岡で、よそ者が多いのである。

このような多様なルーツのある福岡市に、共通する市民性があるのだろうか。

私は中学2年生の春に、東京から福岡の中学校に転校してきた。福岡ではお坊ちゃま学校といわれる比較的のんびりした中学校、だと聞いていた。しかし待っていたのは、まあイジメや無視、暴力といった類であった。あいさつ代わりによく殴られたし、「くらすけん」(殴ってやる)、「かかってきんしゃい」「東京もんが」といった強烈な博多弁は、東京から編入してきた意気地なしの私をひどく怯えさせ、孤立させた。私は高校を卒業して上京するまで、博多弁になじめなかったし、使わなかった。
こういった個人的な体験は、県民性や市民性を客観的に判断するのには妨げになるだろうか。しかし、すっかり大人になり中学時代の同級生と当時を回想したとき、「光山君は中学生のころ、みんなの前でお姉さんの話をしたから、びっくりしたなあ」と言われた。多感な中学生とはいえ、九州男児は姉の話をするのもタブーだったのである。

私の自叙伝を書いているわけではないので、もう一つだけ当時の話。
今でも福岡を代表する商店街・新天町のCMが当時流れていたが、そのキャッチコピーも、なかなかぶっている。

「東京に憧れたこともあった。でも今は、福岡に残ってよかったと思っている。好きです、私たちの、新天町」

実に、福岡の県民性が現れてはいないだろうか。「中央への事大主義とその裏返しの対抗意識、強固なとざされた団結性」、まさに祖父江孝男氏の分析を言い表したような言葉ではないか。

だが私は、これが現在の福岡市の市民性だとは思っていない。なにしろ私が中学生だった当時とは、1990年、つまりいまから30年以上前の「歴史」なのである。
現在は、いい意味でも悪い意味でも、県民性が失われつつある。転勤族、そして九州各県から多くの人々が福岡市に流入してきて、福岡市民の気質はだいぶ変わったと思っている。中央、すなわち東京へのコンプレックスもだいぶ薄れ、排外的な姿勢もあまり見られなくなってきている。気質が荒いといわれてきたが、今でも飲酒運転などの事件は多いけれども、平成18年の650件から減少し、令和2年には111件になっている(それでも全国7位だが)。博多弁もよく使われるが、当時よりだいぶ柔らかで、時にはチャーミングにも聞こえる。
そして、なんといっても進取性は福岡市民の財産である。私は古代から中世にかけての国際都市・博多の気質が今でも残っているとは思っていないが、それでも商業の町だけあって、おしゃれで、流行に敏感な人が多い気がする。「1000年に1度の美少女」といわれた橋本環奈や、まさに新天町でスカウトされた今田美桜などのタレントが多いのも、そういった気質と無関係ではないだろう。

県民性は確かにある。しかし歴史的にも、人間としても、それを乗り越えてこその主体性であると思っている。「東京もんはつめたかけん」などと偏見を持たずに、地域性に縛られずに生きていきたいものである。

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