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「敵国降伏」はアリ?博多・筥崎八幡宮の扁額の意味を問う

筥崎八幡宮は博多の中心街からやや東、箱崎の地にある。「筥崎」か「箱崎」かでややこしいが、筥崎宮と同じ名前を地名に名付けるのは不敬だということで、周辺の地域は「箱崎」と名付けられている。筥崎八幡宮の秋のお祭り「放生会」(ほうじょうえ、ほうじょうやとも)では、参道に数百軒の露店が連なり、市民の楽しみになっている。新年にはソフトバンクホークスやアビスパ福岡といった地元スポーツチームも必勝を祈願する。

福岡市民に親しみのある筥崎宮であるが、参拝してどきっとするものがある。楼門の扁額(看板)に大きく掲げられた「敵国降伏」という御宸筆である。敵国降伏とは穏やかではない。

なぜ筥崎宮の一番目立つところに「敵国降伏」と書かれているのだろうか。それは、博多が古代・中世にかけて日本列島の玄関口であったことと無縁ではない。

八幡宮の「八幡(大神)」とは第15代天皇の応神天皇のことであるが、応神天皇にピンと来なくても、「神功皇后の子」というとピンとくるかもしれない。神功皇后は夫である仲哀天皇とともに熊襲征伐に出かけるが、仮御所の香椎宮(福岡市)に滞在中、「新羅を成敗せよ」との信託を受ける。それに従わなかった仲哀天皇は神の怒りを受けて命を失うが、神功皇后は朝鮮半島の新羅、百済、高句麗の三国を征伐したといわれる(三韓征伐)。実際には、朝鮮半島の三国の争いにヤマト政権が介入したというのが実情に近いとの指摘があり、かなりの脚色や誇張があるにせよ、ある程度は史実なのであろう。

全国に神功皇后伝説があるが、特に福岡県とその周辺では、皇后がのちの応神天皇を「産み」、「宇美」という地名の由来になった宇美八幡宮(福岡県粕屋郡宇美町)とか、皇后が温泉を発見し「あな、うれしの」と言ったといわれる嬉野温泉(佐賀県嬉野市)とか、皇后が出産を遅らせるために腰に巻いたとされる石を祀る鎮懐石八幡宮(福岡県糸島市)などがある。

筥崎八幡宮は応神天皇・神功皇后・玉依姫命の三柱を祀っている。八幡宮はのちに源義家(八幡太郎)が京都の石清水八幡宮を崇敬したことから源氏の氏神となり、やがて武士の信仰の対象となって全国に広がった。つまり、筥崎八幡宮は、神功皇后の三韓征伐にゆかりがあり、戦争にゆかりがあるということである。

もう一つは、文永の役、公安の役とも博多湾を襲った元寇である。文永の役(1274年)では蒙古襲来により筥崎宮社殿は炎上したが、再興にあたり亀山上皇が「敵国降伏」の宸筆を納めた。楼門の額の「敵国降伏」は、亀山上皇の御宸筆を拡大筆写したものなのである。

なお福岡市東区の東公園には4.8mもの亀山上皇の立像と「敵国降伏」の文字がある。これは明治37年に建てられた。発案から27年かけて建立されたというから、日清戦争から日露戦争の期間に当たる。

筥崎八幡宮の「敵国降伏」の扁額の文字は、太平洋戦争末期の切手にも表れている。1945年、逓信院(現・日本郵便)は戦意発揚と戦勝祈願のため、筥崎八幡宮の扁額をデザインした普通切手を発行した。物資不足に伴い、印刷は黒一色で、目打が省略されたものも製造されたという。

このように、元寇から太平洋戦争にわたって、博多の筥崎八幡宮の「敵国降伏」は、戦勝のメッセージとして、そしてプロパガンダとして使われてきたのである。

確かに敵国降伏とは穏やかではない。しかし現在、楼門の横には但し書きがあって、

「敵国降伏の真の意味は、武力によって敵を降伏させる(覇道)ではなく徳の力を持って導き、相手が自ら靡き降伏する(王道)という、我が国のあり方を説いてある」

と説明している。

私は筥崎八幡宮の苦心の但し書きは、「アリ」だと思う。この但し書きによって、アジアの人々をいくぶんかは納得させ、地元の人々の心を落ち着かせ、穏便にことを済ますことができるのだから。いや、過去はともかく、現在の筥崎八幡宮がそのように定義しているのならば、それもまた正解であろう。


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