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博多港の歴史は長く、水深は浅い

福岡市は大小の川が流れ、広大な平野と良港を有して――などいない。

第1に福岡市は大都市の中では極めて珍しく、一級河川がない。一級河川がないということは、まずは工業用水が取得できず、工業が栄えない。福岡市が県庁所在地になってからも人口が伸び悩み、鹿児島市や熊本市どころか、県内の大牟田市や八幡町にすら抜かれたのも、ひとえに河川に恵まれていないということにある。ちなみに三池炭鉱(大牟田市)や八幡製鉄所(北九州市)は「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界遺産に登録されている。近代明治は福岡市にとって雌伏の時というか、低迷期であった。
現在も福岡市の第2次産業(製造業、建設業など)は8.8%と100万都市の中で一番低い。第3次産業(卸売・小売業、金融・保険業、不動産業など)が100万都市でもっとも高い(91.1%)のも、なにも商都・福岡を最初から目指していたわけでも、製造業からサービス業への時代の転換を予測していたわけでもなく、工業用水(と工業用地)が不足していたからだ。
福岡市は戦後の高度成長期に合わせて第二次産業の振興を目指した時代があったが、西日本新聞社が有識者で組織した『都市診断委員会』で反対キャンペーンを張り、第3次産業を重視した路線に戻った。民間キャンペーンが市政を動かしたというのは、市民にとって誇れることではある。とはいえ第3次産業の街づくりというのは結果的にそうせざるをえなかったというのが正鵠を得ているだろう。・

商業都市、あるいは福岡市民が嫌がる言葉「支店都市」として発展してきた福岡市。人口は1975年に100万人を超えた。すると何が起きたかというと、水不足である。一級河川はないが、中小26の水系が流れている。ところがこれらの河川はいずれも急こう配なため安定的な取水がしにくい。1978年、いわゆる「福岡大渇水」が発生。給水制限は287日間に及び、給水車出動台数は延べ1万3000台を超えた。市民はバケツやポリタンクにためた生活を余儀なくされ、高台の住宅地では給水車に長蛇の列が並び、一時的に市外に転居する人も出た。
福岡市では、福岡大渇水の教訓から、1981年、市内配水管の流量や水圧を24時間体制で集中コントロールする配水調整システムを導入し,水管理センターにおいて運用している。手っ取り早くいうと、現代のスマートグリッドの原型みたいなものである。
1994年にも295日に及ぶ給水制限でなされた。2003年、全国初の「節水推進条例」を施行、その甲斐あってか、大都市21都市では最小の一人当たりの配水量262ℓを達成している。
つまりはハード・ソフトの努力によって、なんとか160万都市の人口を潤しているということだ。人口は2035年まで増えると予測されている。そして何よりも地球温暖化による気候不順に伴う渇水が危惧される。快適な生活を送る市民にとっては、停電も渇水も過去の出来事かと思うけれども、決してそうではない。

広大な平野も有してはいない。福岡平野の面積は250㎢。首都圏がある関東平野の1万7000㎢、名古屋市のある濃尾平野1800㎢、大坂市のある大阪平野1600㎢に比べると、いかに小さいかがわかる。どうして毎回3大都市圏と比較するのかといわれると問われれば、「福岡市単体では3大都市圏に匹敵する都市圏は形成できない」と答えるしかない。さらにいえば札幌、仙台、広島の「支店都市」に比べても地理的条件は厳しい。脱線するが福岡市が本気で国際都市を目指すならば、北九州市から熊本市までを含む広域経済圏を作るしかないと私個人は思う。

最後に、港である。「古代から博多港は良港だったでしょ」と聞かれるかもしれない。博多湾は水深の浅いラグーン(内海)のため、穏やかで停泊地も多く(停泊地が多い=博多と名付けられた説もある)古代では天然の良港と呼ばれた博多港だが、その水深の浅さゆえ、南蛮貿易のころには大型船が入れず、日本の玄関を長崎や平戸に譲ったことはすでに述べた。秀吉は博多町割りを行い、博多の町を復興させるが、朝鮮出兵に際して博多に城は作らず、肥前の名護屋城を基地として選んだ。何しろ南蛮船どころか、加藤清正の兵船すら、博多湾に入れなかったくらいの水深だったのである。
中世の日明貿易によって博多港は最盛期を迎える。しかしこのような地理的環境、そして17世紀前半の鎖国令により、博多港は地方都市の一港に過ぎなくなる。
近世から近代にかけて博多港は二流の港であった。ペリー来航により1858年に開港を迫られた都市は、函館・新潟・横浜・神戸・長崎であり、博多港が国際港に指定されたのは1899年だからだいぶ遅い。名実ともに国際港になったのは、1939年の第一種重要港湾の指定である。
ただ、ここから国際港としての力を発揮していく。太平洋戦争後には博多港は引き揚げ援護港に指定され、佐世保に並ぶ139万人が海外から引揚者を迎え入れるとともに、50万人が出国した。
1951年に重要港湾に指定され、近代港湾に向けた整備が本格化していった。今ではコンテナ取扱数全国6位、外国航路船舶乗降人員は全国1位となっている。
水深が浅い博多港が何で大型コンテナ船や大型クルーズ船が寄港できるようになったのか。

それは単純に、海底を掘ったのである。

博多湾は今でも、水深が3~10mと、東京湾や伊勢湾、瀬戸内海に比べても極端に浅い。そのため湾内の大型船のための航路を設け、12~14mまで「しゅんせつ」(海底を掘る)して、大型船を通しているのだ。
そのための土は、たとえば東区にある400haもの人工島「アイランドシティ」の埋め立てに使われている。あんな馬鹿でかい人工島を作るなんて、と思う人も、しゅんせつの重要性を考えていただければ、納得されるのではないかと思う。


というわけで、福岡市は河川にも、平野にも、港にも、恵まれてはいなかった。「アジアの玄関口」という地理的条件をテコに、これらの制約を打ち破り、九州第一の大都市に発展したのは、近現代の技術と知恵のたまものだったのである。

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