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福岡は本当に国際都市なのか~その歴史から紐解く~


福岡史の入門書の冒頭には、枕詞のように「古代から現代にわたって、福岡はアジアの玄関口として発展を遂げてきた」と書いてあるが、半分当たっていて、半分疑わしい気がする。

確かに古代の外交・貿易の迎賓館である「鴻臚館」は福岡・大阪・京都の3か所にあった。現在、この3都市(と神戸市)が西日本を代表する都市になっていることからも、地理的・地政学的に発展を約束されていたかのように思える。遣唐使は必ず博多から出発したし、日宋貿易・日明貿易でも博多は大いに栄えた。戦国時代は諸大名(少弐・大内・大友・竜造寺・島津・毛利)の争奪戦になったし、その結果焼け野原になった博多に入部した豊臣秀吉は、いち早く博多の町を復興させている。

そして現代、福岡はアジアの拠点都市を目指し、その結果、貿易港としては西日本で神戸に次ぐ2位、クルーズ船の寄港数では日本一になっている。

しかし私は、直線的な発展史に反対したい。都市は必ずしも段階的に発展するわけではないし、地理的要素に決定されるわけでもない。歴史のダイナミズムの中でとらえるべきなのである。もっと簡単に言うと、都市の歴史には栄枯盛衰がある。

そのかっこうの例が、福岡だと私は思う。

中世の戦国大名と同様に、近世の福岡藩の始祖・黒田氏もまた、博多の富を狙っていた。
豊臣秀吉の九州征伐の際には参謀総長を務めていた黒田官兵衛は、中津(大分県)を中心とする豊前一国を与えられるが、博多の重要性を熟知していた。息子・長政が関ヶ原で東軍一の功を挙げ、徳川家康から感謝状までもらった黒田氏が所望したのは、筑前の国であった。筑前の国は石高こそ五十二万石であるが、博多の富を考えるとそれをはるかにしのぐ価値があると考えたのだろう。

黒田家は大賀宗伯などの豪商に貿易の特権を与え、博多はさらなる発展を遂げていく、と思われた。

しかしそこで行われたのが、1633年に始まる「鎖国令」である。鎖国令以後も博多商人は果敢に密貿易を行うが、厳しい処罰にあっている。例えば伊藤小左衛門は福岡藩の御用商人で、対外貿易によって巨額の富をたくわえた豪商だったが、朝鮮への武器密輸が発覚して磔に処された。3歳や5歳もの息子も斬首され、40人近くが連座された悲劇から、近松門左衛門の浄瑠璃の題目にもなっている。
武野要子氏は「秀吉のあたりまでは、日本貿易の中心としての博多でしたが、黒田氏の所領になってからは、地方都市に変わってしまった」と指摘している。

もちろん、鎖国令によって貿易が長崎の出島に限定されたことも大きい。
だが、博多は鎖国令によって、命運が尽きたのだろうか。

私は博多の貿易港としての命運が尽きたのは、そのずっと前、秀吉の時代ではないかと考えている。このころ日本に貿易していたのはポルトガルやスペイン、オランダなどの南蛮船だったが、南蛮船は大型船であり、当時水深が浅かった博多港を嫌い、平戸や長崎に寄港するようになっていた。秀吉は直轄地である博多に寄港するようポルトガルの通商責任者に言い渡すが、あえなく拒絶されている。秀吉は1588年には長崎を直轄地としている。

博多は太古から陸地まで海水が侵入するラグーン(内海)を特徴としており、そのため穏やかで天然の良港とされた。しかしそれが時代とともに砂が堆積して浅瀬になり、南蛮貿易の時代にはそれがあだとなってしまったというわけだ。

目利きのいい博多商人は新興の長崎へと移ってゆく。博多は地方都市に没落する。それどころか、福岡藩は長崎警備を江戸幕府から命ぜられ、朝鮮通信使の接待などの時の費用もすべて福岡藩が賄うことになった。このことが幕末の藩財政ひっ迫の原因となる。また、今や陸の幹線道路は長崎街道になり、それは福岡藩領をかすめるものの、博多は通過しなかった。

貿易に変わる国内の海運業も低迷した。五カ浦廻船と呼ばれた博多湾諸港の船は、北海道を含む全国に年貢米を運ぶなど18世紀中期まで栄えたが、日本海航路の北前船の台頭などにより次第に衰微した。

ペリー来航により開港したのも、横浜・神戸・新潟・函館と、長崎だった。

20世紀になっても博多港は低迷した。重要港湾の第一種・第二種のいずれにも選定されなかった。1908年、博多港に初めて港湾施設(博多船溜)が完成したが、水深はなんと2~3メートル。せっかく視察に訪れた伊藤博文も「タライのようにかわいらしいのう」と苦笑したといわれる。

中村精七郎が300万円(現在では数百億円)の私財を投じて株式会社を設立し、現在の中央ふ頭が完成したのは、実に1936年のことだった。このころにようやく福岡市の人口が長崎市を超えた。
長崎市に国際都市の地位を奪われ、回復するまでの歴史を見てきた。

福岡市は近年、東アジアの拠点都市を目指している。平成元年に百道浜埋立地で「アジア太平洋博覧会」が開かれた時、私は高校生だったが、「アジアの中心都市になる」との掛け声には疑心暗鬼で、「それはアジアの人たちが決めることなんじゃないか」とすら思っていた。

しかし、インバウンド需要が本格化してきて、空気は一変した気がする。そして現在、高島市長の「TEAM FUKUOKA」の掛け声のもと、アジアの金融都市の一角を占めようとの挑戦がある。

コロナ禍や米・中のデカップリングにより再びグローバリズムに暗雲が立ち込めはじめている。冗談か本気か、養老孟司などは「第二の鎖国」を提唱している。

福岡は揺るぎない成長を見せるのだろうか。それとも、移ろいゆく歴史の波に飲み込まれるのか、注目したいところである。

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