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司馬遼太郎『宮本武蔵』を批判する

はじめに

作家・司馬遼太郎の著作の多くは、エッセイとフィクションの混成体である。例えば『関ヶ原』では冒頭、「いま、憶いだしている。筆者は少年のころ…」と語り始め、いつのまにか司馬のフィクションにいざなわれる。その魔法マジックというか幻想イリュージョンこそ、司馬作品の魅力といえる。
フィクションなんだから目くじら立てなくても、という意見は多いと思うが、このテクニックにより、多くの読者はフィクションと史実とを混同する。司馬史観なんて言葉もある。
司馬の著作の虚構を暴く本も大量に出ているし、ネットでもさんざん叩かれている。それでも私は今回、司馬遼太郎の『宮本武蔵』を批判的に考証したいと思う。
なぜかというと、私は宮本武蔵が好きだからである。司馬が描くように、武蔵は自己顕示欲の塊でも、立身出世の叶わなかった緩慢たる悲劇の人物でもないと考えている。そのことを検証するために、司馬遼太郎の作品を久しぶりに手に取った次第である。

1 武蔵の出身地について

冒頭にも述べたように、司馬の著作はエッセイ調でスタートする。『宮本武蔵』においても「先日、にわかに思い立って、宮本武蔵の故郷に出かけてみた。」で始まる。だからその展開をフィクションと逃げることは難しい。
司馬は播州(兵庫県)から作州(岡山県)に向う途上で知人に「武蔵はこの播州の出身ではないか」と指摘され、「むろん、播州人の錯覚である」と一蹴する。黒田如水、後藤又兵衛、大石内蔵助など男らしさと華やぎを持った人物が多いから錯覚したのだろうと推察している。
ところが史実では、武蔵の代表作の『五輪書』(1645)の冒頭に、「生国播磨の武士、新免武蔵守藤原玄信」と名乗りが明記されている。養子の宮本伊織による小倉碑文(1654)にも「播州の英産」と最初に紹介している。武蔵の没後9年に、ゆかりの深い小倉の地に、嘘偽りは書けないだろう。播州の生まれであるのはほぼ間違いない。
ここまで確定しているのにも関わらず、司馬は美作生誕地説を取る。おそらく1909年の宮本武蔵遺蹟顕彰会編『宮本武蔵』を論拠としているのだろう。しかしこの美作説は、原典が18世紀末の歌舞伎の名前を載せるなど信憑性が低い。
もっとも、司馬が美作説を取ろうが問題はない。問題は、司馬が小倉碑文すら読んでいない可能性が浮上するのである。そうでもない限り、播州説を唱える人を「錯覚である」と一蹴したりするだろうか。
しかも司馬は、美作国讃甘郷宮本村に入るのだが、ここで「新免」(武蔵の本名)を名乗る村人や、武蔵の姉の子孫と伝わる人に会ったりする。ここまで列挙されると、読者は美作生誕説を鵜呑みにせざるをえない。
しかし、である。「にわかに思い立った」割には、「まことに幸運な偶然ながら」、この美作津山市で「宮本武蔵と吉川英治展」に出くわし、武蔵の名画に触れている。
率直に述べさせてもらう。これらのエピソードは、「美作説」を強化するための、虚構なのではないだろうか。

2 大坂の陣と島原の乱

司馬の『宮本武蔵』では、佐々木小次郎との決闘などで名声を得た武蔵は、俗欲に駆られ、仕官を目指す。しかし叶わず、浪人として大坂方に付く。そして司馬は「武蔵は微賎の軽士として大坂城の石垣のなかにこもっていたにすぎなかったのであろう」と冷たく言い放つ。
――とんでもない誤解である。
史実は、武蔵は徳川方として、しかも譜代大名の水野勝成の下で参陣しているのである。『黄耈雑録こうこうざつろく』に武蔵が「どこかの橋の上で、大木刀を持って、雑兵を橋の左右へなぎ伏せられる様子は見事であったと、人々に褒められた」という記事もある。
司馬の『宮本武蔵』の初出は1967年であり、資料にも限界があろう。しかし敵味方を間違え、大阪方に付いたと断言する司馬の浅はかさは、いかんともしがたい。
譜代大名のもとで活躍した武蔵は社会的地位を得、島原の乱においては、中津小笠原藩の「旗本一番」の騎馬武者として出陣していることが近年わかっている。司馬はこの資料に触れなかったかもしれないが、養子の伊織が小倉小笠原勢の侍大将を務めていたことから、武蔵が相当な地位を得ていたことは推測できたはずだ。少なくとも司馬の『宮本武蔵』のように、俗欲に駆られ、3000石の仕官を求めて全国を浮浪したなどという事実は、ありえない話である。

3 『五輪書』の評価

司馬は『宮本武蔵』において、「武蔵の後半生は、いわば緩慢な悲劇といえるであろう。」と書いており、むなしく猟官運動を行い、最後は熊本細川藩で18石の捨扶持をもらい暮らしたと書いてある。五輪書についてはほとんど全く触れていない。
しかし史実は、300石(実際は600石相応)であり、しかも待遇は1500石以上の者にしか得られないものだった。
五輪書に触れないのは、宮本武蔵の本質をまったく見落としていることになる。
私はこう考える。
武蔵の歴史的価値は、巌流島、いや大坂の陣や島原の乱の出陣でもなく、64歳にして脱稿した兵法書『五輪書』にあり、その価値の裏付けとして数々の決闘や業績(明石の町割りなど)があると考えればいいだろう。五輪の書は、実戦から離れた武士たちに対する強い危機感があり、刀は片手で持つものとか、死を覚悟することがすなわち武士というのは浅薄な考えだとか、極めて実践的である。心のありようは武士だけでなくあらゆる道(商道を含む)に通じるとしているところが『五輪書』を普遍的なものにしているのだろう。
司馬は『五輪書』を分析することをせず、自己顕示欲の激しい「いやらしさ」を持つ人間だとし、時代が違うからこそ人畜無害な人間として取材できるとすら書いている。司馬の武蔵観は、縦横無尽というよりもむしろ偏見に満ちたものであろう。

さいごに

以上、かなり手厳しく司馬遼太郎を批判してしまった。いまだに司馬のファンは多く、敵に回したくないのが本音である。
私は、多くの歴史好きと同じく、司馬遼太郎のファンであった。『項羽と劉邦』や『竜馬がゆく』には、なんと心躍らせたことだろう。歴史好きが高じて、史学科を専攻するはめにもなった。
しかし、実証主義の歴史学を学び得たものは、司馬への失望であった。歴史を学べば学ぶほど、いわゆる司馬史観の弊害に向き合わなければならなくなった。なぜなら、今でも司馬史観を根拠に、歴史を語り、日本を語る人が数知れないからである。
歴史小説は、歴史小説として読めばいい。素敵な趣味だ。しかし少なくとも私は、司馬史観というものを受け入れることはできない。


「めーん」(小倉城にて光山撮影)

参考文献

司馬遼太郎『宮本武蔵』
魚住孝至『宮本武蔵―「兵法の道」を生きる』

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