見出し画像

栗林忠道中将と硫黄島の戦い

それは見捨てられた島だった。

硫黄島は東京から南へ約1000キロ、東京都北区ほどの面積しかない孤島で、井戸水は辛く、穀物は育たない不毛の地だった。この地に2万人もの日本兵がひしめいていた。しかしこの2万人の守備隊は、玉砕を命じられていたようなものだった。制空権は握られ、船も食料もすべてが不足していた。総指揮官の栗林忠道中将がこの島に赴任する際、この無謀な戦争を始めた一人、東条英機首相は彼に「アッツ島のようにやってくれ」と指示した。硫黄島を守り切るのではなく、玉砕せよという意味であった。陸海軍共同作戦会議では開戦前に「結局は敵手に委ねるもやむなし」との結論に達していた。

硫黄島

栗林中将は、アッツ島の戦いでのように「バンザイ突撃」を選ばなかった。潔い死よりも、あえて最後の一兵たりとも無駄にはせず、敵にできるだけ打撃を与えて、日本本土空襲を一日でも遅らせようとした。無駄死にはさせないことが、兵へのせめてもの報いと考えた。
栗林総指揮官は島に17キロにおよぶ坑道と750の主要陣地を築き、徹底抗戦の構えを取った。敵将ホーランド・スミス海兵中将は硫黄島の陣地を「まるでうじ虫のようだ」と唸ったが、辛辣なスミス中将としては最大の賛辞だった。アメリカ軍は74日連続という爆撃を行ったが、日本兵は坑道に潜り、爆撃が終わるとはい出てきて、さらに陣地を築いていった。

1945年2月19日、上陸作戦が開始された。第二次世界大戦で最大の艦砲射撃に、硫黄島は粉塵と土煙が8メートルの高さまで舞い上がった。かすむ島影を見つめていた海兵隊員たちは「これじゃ日本兵は一人残らず死ぬんじゃないか」「俺たち用の日本人は残っているのかな?」と話し合った。日本軍の水際作戦とバンザイ突撃に慣れていた米兵たちは、上陸しても一向に抵抗を見せない敵軍に拍子抜けした。戦前の「戦闘は5日で終わる」とのブリーフィングが米兵たちの頭をよぎった。
上陸開始から1時間後、突如として日本軍の砲撃と銃弾が海岸に降り注いだ。海兵隊員は日本軍のロケット砲の餌食となり、この一日だけで566人の犠牲者を出した。
それでも海兵隊は、4日後の2月23日、摺鉢山すりばちやま頂上を占領した。アメリカ海軍長官はスミス中将に「これで海兵隊は今後500年安泰だな」と話しかけた。

摺鉢山にアメリカ国旗を掲げる海兵隊員


徹底抗戦する日本軍も北へ北へと追いやられた。3月14日には硫黄島占領宣言式典が行われ、スミス中将は涙をためて「この島の戦いは、最悪だったな」とつぶやいた。
だがアメリカ軍は、この後2000人以上の死傷者を出すことになる。3月17日、栗林中将は総攻撃を敢行。3月26日には栗林中将自ら日本兵400人の先頭に立ち摺鉢山方面に南下して野営地を急襲、米兵たちはパニックに陥り、死傷者約170人に上った。
敵も味方も「悪夢」と振り返った硫黄島の戦い。36日間におよんだこの戦闘で、米軍2万8686人、日本軍2万1152人の死傷者を出した。栗林中将は残存兵とともに元山、千鳥飛行場に突入し、自決したか戦死したと思われる。遺骨は今も見つかっていない。

「アメリカをもっとも苦しませた男」としてアメリカ人の記憶に深く刻まれた栗林忠道中将は、アメリカとの戦争をもっとも恐れていた。ドイツ留学組が主流の将校において栗林はアメリカに留学しており、その国力と経済力をつぶさに観察していたのである。優秀な将校ゆえ硫黄島の司令官に任命されたのは間違いないが、アメリカ留学組の栗林中将を首脳部が嫌ったからという説もある。
勇将・栗林中将は、人間らしい優しさを持った男だった。戦地から遺書を家族に送る一方で、家族の一軒家の隙間風を心配したり、娘のたか子を「タコちゃん」と呼んで、夢に出てくるほど会いたいという気持ちを吐露したり、冗談を言って和ませたりと、家族思いの男だった。戦地においても、2万もの兵全員と顔を合わせ、一兵卒と同じ食事をとった。
だからこそ、この兵たちを見捨てた東京の首脳部には手厳しかった。
彼の辞世の句は次の通りである。

国の為重きつとめを果し得で、矢弾尽き果て散るぞ悲しき

「散るぞ悲しき」とは、およそ帝国軍人らしからぬ言葉である。栗林中将は間違いなく、この句が東京の首脳部によって握りつぶらされることが分かっていただろう。この辞世の句は、軍部によって「散るぞ口惜し」に改編され、新聞によるプロパガンダに利用されるのだが、そのことさえ予想していたのかもしれない。

それでも、十分な矢弾を支給されず、散っていった日本兵たちの哀しみを、伝えようとしたのではないか。

軍部にその思いが伝わったかどうかわからないが、平成6年2月に硫黄島に上陸した天皇には確実に伝わった。

天皇はこう詠ったのである。

精魂を込め戦いし人未だ地下に眠りて島は悲しき

参考文献

梯久美子『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?