見出し画像

幻の「大坂幕府」構想

それは綱渡りの勝利だった。

徳川秀忠隊3万8000余の遅参により、関ケ原における東軍の前線部隊3万強のうち、徳川の主力部隊は6000余人しかいなかった。

結果的には勝ったのだからよかったではないかと言われると、そうではない。戦後処理において西軍の諸大名から没収した632万石のうち、実に80%強にあたる520万石を関ケ原で活躍した豊臣系大名に与えなければならなかったのである。例えば福島正則には安芸・備後約50万石という破格の厚遇を用意したのだが、それでも家康側は不服に思われないか心配していたという。こうして日本の3分の1の地域に豊臣系国持大名が分布されることになった。もちろん島津、毛利、上杉、伊達など有力諸大名の力もいまだ温存されていた。

豊臣秀頼が関ケ原により65万石の一大名に転落したというのは誤りであろう。家康の征夷大将軍任官ののちもなお、豊臣氏はこれらの大名の伺候を受けていたし、江戸城をはじめとする課役を免れていたし、西国大名への「慶長十六年の三カ条誓詞」においても署名を逃れていた。つまり徳川将軍の支配下にはないことを、はからずも明示する形となったのである。

なによりも豊臣家には、朝廷との太いパイプがあった。勅使や公家たちは大坂に参向していたし、公武融和がなされていた。それは関白・豊臣秀吉以来の遺産であった。

天皇を頂点とする身分制度や根強かった当時、大坂に幕府を置き、朝廷との公武融和を図ることで、天下を掌握しようとする構想が、家康にはあったようである。すなわち「大坂幕府」構想である。大坂夏の陣直後に将軍秀忠が大坂を居城とするという情報を幕府の要人から得たとする島津家久の記述も残っており、その10年後になってもなお、「大坂はゆくゆくは将軍の居城になるところだ」という趣旨の小堀遠州の書状も最近発見された。徳川大坂城が江戸城をしのぐ形で再興されたのも、そのことを裏付けている。

だが、「大坂幕府」構想は幻に終わった。後水尾院ら朝廷の抵抗にあったことがその主因だといわれる。
だが私は、徳川家は、織田信長・豊臣秀吉の天皇を中心とした中央集権にとん挫し、幕藩体制という地方分権に舵を切った結果だとみる。それというのも、秀忠の関ケ原遅参による有力大名の台頭があったためではなかろうか。

歴史に「もし」はないというが、もし秀忠が関ケ原に遅参せず、徳川隊単独で勝利していたら。諸大名の力を押さえ、信長・秀吉以来の中央集権を成し遂げ、大坂に幕府を置き、京の朝廷との公武融和が実現できたのではないか。

260年後、大坂城から出陣した徳川勢は、薩長を主力とする新政府軍に惨敗した。もし大坂に幕府を置いていたら、公武合体を実現させ、徳川幕府は延命できていたのではないか。そんな想像が膨らむ。

参考文献
笠谷和比古『関ヶ原合戦』
藤田達生『藩とは何か』

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?