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吉田茂と広田弘毅の「運命の岐れ路」

吉田茂と広田弘毅こうきはともに東大出身で、外務省の同期入省で、外相、首相を務めている。だが前者は戦後の民主主義国家日本を建設した首相として知られ、後者はA級戦犯として文官唯一の絞首刑に処される。

共通点もあるが、むしろ対照的な人生といえる。

吉田茂は2歳にして実業家・吉田健三の養子に迎えられ、11歳にして今日の数十億円の遺産を相続した。「若さま」と呼ばれ、多くの召使にかしずかれて育った。東京帝国大学法学部に入学した際は、東京に家を構え、白馬に乗って通った。外務省に出勤する際も、徒歩で通う上官を馬上から見下ろして挨拶した。傲慢であまのじゃくな人物として知られ、上司が吉田を御せる人物に交代したくらいである。上司の寺内正毅が首相になる際、総理大臣秘書官を打診されるが、「総理大臣は勤まると思いますが、総理大臣秘書官は勤まりません」と暴言を吐いた。


吉田茂

そんな性格なので出世と無縁だったが、30歳の時、あの大久保利通の実子である牧野伸顕の女婿となるという天啓を得る。岳父を通じて猟官運動を行ない、第一次大戦後のパリ講和会議に随行し、在英大使館に任ぜられる。外務次官になれたのも、ムッソリーニを嫌う吉田がイタリアから帰朝できたのも牧野の口添えである。吉田はガチガチの帝国主義者であった。「対華二一カ条の要求」に反対したのも、その内容ではなく手法であったし、上司である外相の指示を待たずに張作霖に対して強硬策を打ち出し、なんとあの関東軍から制止されるなど、大陸膨張主義者、干渉主義者であったのである。主流派で「平和主義」だった幣原喜重郎首相よりも関東軍の暴走を許すことになる田中義一首相のほうが馬が合った。

一方、広田弘毅は福岡の貧しい石屋の息子に生まれる。詳しくは過去記事を参考していただきたいが、貧しいながらも勉学や柔道に励み、修猷館から東京帝国大学、そして吉田とともに外務省に首席で入省する。
広田は玄洋社の社員として、彼らの応援を受ける。そして吉田と同じように、財閥の女婿となるチャンスが訪れる。しかし広田は縁談を断り、苦肉を共にした玄洋社の幹部の娘と結婚する。当時では周囲も啞然の決断だった。
広田は「日中提携」を手掛けようとしていたし、ソ連との関係改善を期待されて外相に就任する。しかし「広田三原則」などの対中強硬策で次第に行き詰まる。

広田弘毅と妻・静子

そして運命の「二・二六事件」が勃発する。岡田啓介首相が辞職し、近衛文麿が次期首相を固辞すると、吉田茂は近衛とともに広田を説得し、首相に就けようとする。広田も苦渋の決断で、首相就任を内諾する。ところが、広田弘毅の組閣はさんざん軍部の妨害に会って、吉田茂の外相就任をも阻止される。吉田は代わりに、駐英大使に任命される。


二・二六事件

これが「運命のわかみち」(吉田茂)となる。広田弘毅はこの首相在任中の事績が戦争犯罪として問われることになる。もし吉田茂外相が実現し、広田弘毅の伴走者になっていたら、吉田は戦後、少なくとも公職追放され、名宰相・吉田茂は誕生しなかっただろう。広田とともに絞首台の露と消えていたかもしれない。

広田弘毅首相は軍部の介入に次第に疲弊し、流されるようになり、日中戦争でも戦線拡大を許容する。一方、在野であるはずの吉田は、対米開戦に反対し、終戦に尽力する。これが戦後、アメリカに対しての「免罪符」になる。

広田弘毅は戦後、文官唯一の絞首刑となる。一方戦前までは目立った働きのない外交官だった吉田茂は、マッカーサーによる占領下をうまく立ち回り、共産主義から国を守り、天皇を守り、再軍備をうまく抑制してのちの立憲君主国・経済大国日本の道筋を作った。

…吉田が養子にならずに、遺産も受けずに、名門の女婿にならなかったら?広田が糟糠の妻を選ばずに、首相を固辞していたら?二・二六事件が起こらずに、広田に首相のお鉢が回らなかったら?そう考えると、あらためて歴史のあやというものを考えずにいられなくなるのである。

参考文献
原彬久『吉田茂 尊皇の政治家』
ジョン・ダワー『吉田茂とその時代』
服部龍二『広田弘毅「悲劇の宰相」の実像』

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