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【こんな時代】 その②  八木商店著

 その日も通勤電車は相変わらず満員だった。俺はいつものようにドアの脇に身を潜めて、窮屈な姿勢でスポーツ新聞を読んでいた。駅に到着する度にドアが開いて乗客の出し入れが行われる。当たり前のことだ。俺は新聞を畳んで更に身を小さくして、電車に入ってくる人々をボーッと眺めていた。

 その時、ふと一人の若い女性に目が止まった。その女性をボーッと見て思った。

 うちの会社にもこんな若いのがいてくれたらいいのに。

 心の中でため息を吐いた。

 会社に着いてからも朝見た夢が気になって、仕事に集中できないでいた。パソコンを載せたデスクがフロア全体を占めている。そこには男性社員の姿しか見られない。もうとっくに見飽きた光景だ。まるで男子校だ。午前中ボーッとしていた俺は仕事をしたのかどうかもわからなかった。昼休みに珍しく同僚の浜田に誘われた。

 浜田は俺を「やっさん」と呼び、俺は「浜やん」と呼んでいた。入社したてのそれほど親しくなかった頃から、どういうわけか俺たちは互いにそう呼び合っていた。浜田が昼食を誘うのは彼が結婚してからは初めてのことだった。俺は浜田の誘いを不思議に思って訊ねた。

「弁当じゃないの?」

「ああ、うちのカミさん、昨日から友達の結婚式で留守にしてるんだよ」

 へぇ、結婚式か…。

 結婚式と聞いて俺は口を噤んでしまった。

 行き付けの蕎麦屋は大勢の客で賑わっていた。運良く二人分の席をカウンターに見つけることができた。これで満員だ。俺と浜田は席に着くなり手っ取り早く蕎麦を注文。蕎麦は物の1分くらいで二人の前に並べられた。

 蕎麦を勢いよく啜っていると、浜田が箸を置いて何やら言ってきた。

「今年はラッシュらしいんだ」

「何が?」

 箸を休めてOLらしき制服姿の女性客たちを見つめる浜田。俺は口の中一杯に蕎麦を詰め込んで、浜田の視線の先を追ってその女性客を見た。

「いやね、うちのカミさんの友達の結婚なんだけどね」

「奥さん幾つだっけ?」

 俺は箸を休めず訊ねた。

「こないだ28になったよ」

 俺は箸を止めて女性客の方をじっくり眺めた。彼女たちもそれくらいの年齢に見える。

「28か…。女は30になる前に結婚したいもんなのかねぇ?」

「そうじゃないか」

 浜田は女性客に視線を向けたまま、箸でコップを軽く叩いてリズムを取った。

「30か…」

 俺はため息とともに、そんなことを呟いた。そんな俺が詰まらなそうに見えたのか、浜田が心配そうに訊ねてきた。

「どうした? ブルーな顔して」

 俺を心配する浜田の神妙な面持ちに、結婚して落ち着き、毎日を楽しく過ごしている家族団らんの光景がリアルに想像できた。俺と浜田は大体似たり寄ったりだ。強いて違う点を挙げるとしたら、独身と既婚ってとこだ。

「俺って独り者じゃないか」

「そうだなあ」

「俺な」

「うん」

 俺の顔を覗き見る浜田に、間を置いて真剣な眼差しで見つめ返して言った。

「俺も結婚したい!」

 俺は完全にそこが蕎麦屋だということを忘れていた。場所をわきまえず思わず大きな声で叫んでしまった。店内は一瞬水を打ったように静まり返り、客の視線が一斉に俺に向けられた。浜田も驚いて咳き込んだ。

「けっ、結婚!」

 浜田は目を丸くして、驚いた様子で俺を見つめている。

「ああ、結婚だ。俺も早く結婚してーな!」

 俺たちの会話に興味を持った客がじろじろと見ている。もちろん浜田が眺めていた女性客たちも、じろじろ見てにやにやしている。浜田は周りの視線が恥ずかしかったらしく、冷静に他人のふりを装っていた。だが、俺の力を込めた両目は、しっかり浜田の顔を見つめて放さなかった。仕方なく浜田は興奮している俺の気持ちを鎮火しようと、周りの目を気にしながら小声で言った。

「まあまあ、そう興奮するな。話はここを出てからゆっくり聞いてやるから。とにかく今はさっさとそいつを始末しろ!」

 客の視線を浴びたことがよっぽど恥ずかしかったと見え、浜田の顔は引きつっていた。俺は浜田に促されるまま、急いで残りの蕎麦を口の中に押し込み、逃げるように店を出た。

 昼休みが終わっても、中途半端に終わった蕎麦屋での話がしこりのように胸の奥に支え、気分が悪くて仕事どころじゃない。だから仕事中にもかかわらず、浜田の席に行って上司の死角に隠れながら話のつづきをはじめた。

「浜やん! 誰か紹介してくれ!」

「俺の知り合いは皆んな結婚してるからなぁ。俺よりもうちのカミさんに訊く方が早いかも」

 確かにそのとおりだ。

「なあ、浜やん。いや、浜田君! 君から奥様に僕が求人募集してるとお伝え願えないかなぁ」

「ああ、いいよ」

「ほんとか! やっぱ持つべきものは既婚者の同僚もしくは部下だよな」

 仕事中にもかかわらず、仕事そっちのけで俺は心底喜んだ。浜田はパソコンのモニターに目をやりながら、横目で上司をちらちら見ている。何をそんなにおどおどしているんだ。中学生じゃあるまいし。

「でもな、やっさん。嫁さん募集と言っても、すぐに現れるとは思えんがね」

「大丈夫。俺も後何日以内に結婚しなければいけないってわけじゃないから心配ないよ」

「いや、違うって。俺が言ってるのは、やっさん、やっさんが言ってるようなことじゃないんだよ」

 俺は浜田の言いたいことがわからなかった。

 仕事を終え何処にも寄らずその日は家に直行した。

 部屋は相変わらず脱ぎ捨てた衣服やゴミが散らかっている。朝家を出るときと全く同じ配置で散らかっている光景に、何故か理由もなくホッとしてしまうのも俺が独身者だからなのかもしれない。

 浜田によると奥さんも夕方には帰宅してるとのことだ。多分、浜田のことだから帰宅すると真っ先に俺の話をするに違いない。俺は浜田に期待した。なんだか浜田が俺の未来を握っているように思えた。

 俺は会社帰りにコンビニで買った弁当とビールで腹を膨らましてシャワーを浴び、時刻はまだ午後の9時にもなっていないというのに、小学生並みの就寝タイムで布団に潜り込んだ。早く寝てしまえば、明日が早くやってきそうな気がしたからだ。

 部屋を真っ暗にして翌日の浜田の朗報を期待しながら、俺なりに都合の良い勝手な想像を思い描いてみた。

 タイプの女性を浜田の奥さんから紹介され、交際を手短に経て教会で挙式している場面だ。うちは仏教だが結婚式とクリスマスくらいはキリシタンでもいいだろう。その代わり葬式のときは仏教でやってやる。色々想像していくうちにくだらないことで、想像を一時停止することも何度となくあった。

 てことは何か、浜やんの嫁さんの友達ってことは、28ってことか? でも、それは同級生の友達ならってことだよな。案外20代前半の人もいるかもしれないじゃないか。

 でも待てよ…。

 その反対もありえるんじゃないか。

 自分よりも遙に年上の女性を紹介される場面が一瞬目の前を過った。俺は即座に想像を一時停止して、その映像を振り払うように頭を激しく振った。

「ああ、いかん、いかん! 考えすぎは予想外の最悪なことまで考えてしまうからいかんな! 今日はこのくらいにして、明日ゆっくり浜やんに聞こう」

 そう自分に言って、俺は静かに瞼を閉じて寝に入った。布団に深々と入って、想像力をフル回転させる俺は冗談抜きで小学生だった。

 

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