厚みの話
厚みの話と書いたがこのタイトルは適切ではない。ごめん。合ってるんだけど私がこれから書くのは薄さの話である。一緒か?一緒ではないな。まぁええや、自分語りなので。浮かんだことから書いてみただけです。
私はとても薄っぺらい。足りてないものが多い。
完璧な人間はいないし足りてないにしたってきちんと持ち合わせてるものもあるんだけど、何よりも薄い人間であることがバレることが一等怖い。もっともらしい事を言ってるけどなんだ大した事ないんじゃんと思われるのがめちゃくちゃ嫌だ。自認と違っていないから余計に嫌だ。本当に嫌。なので私に嫌がらせをしたい時はこのフレーズを使うとよろしいかと思います。効果ばつぐん。
この二、三年ほど自分の不快の因数分解をやってきた。理由はざっくり二つあって、自分の感情が心というもののどこを刺激されて生まれてるのかってことに興味が出始めたというのが一つ。怒り方を覚え直したいなと思うのが一つ。前者は表現そのままなんだけど、後者については私が大好きな自分語りを深めていく必要がある。ここまで来たなら読んでいけよ私の話を。
私は二十歳すぎるまで怒ることが苦手だった。怒らない穏やかな性格だったかというとそうではないけど、怒りをあらわにすることはすごく愚かで恥ずかしくて子供っぽい行為だと思っていた。なので怒ってしまった後はめちゃくちゃへこんだし自罰感情で満たされてそれはそれはもう気持ちいい心の泥酔状態だった。さも昔のことのように書いているけど自罰感情からの泥酔状態ルートは今になってもしょっちゅうやるので絶賛矯正中である。なんなら一生付き合わなくてはならない気もしている。脳がドーパミンによって楽しくなっちゃう仕組みしてる限り逃れられないんじゃないかな。最悪である。話が逸れた。
怒ることは恥ずかしいことで、清濁を飲み合わせて穏やかに、ある程度のことは受け入れて受け流してまぁ世の中そういうもんだよねと涼しい顔をするのが大人仕草だと思っていた時期が私にもあったのです。今となってはそこで「は?」と言わずにいつ「は?」っていうの?という事もあったけど、怒りの瞬発力が無かったので言えませんでした。今はちょっと怒り過ぎてるので足して2で割れば多少マシだったかもしれない。そう上手く行っていればよかったものを。
いま思えば母に怒ればよかった、妹に怒ればよかったと言うことが多い。私には弟もいますが弟とは比較的バトルが多かった(しなんなら流血沙汰にもなった)ので、弟に対しては怒り過ぎたなと思っている。弟がその辺どう考えてるかは聞いた事ないけどそのうち聞こうかな。めっちゃ根に持ってたらどうしよう。そういうところは別に似て欲しくないなと思う傲慢姉感情。あとは友人にも怒ればよかったと思う事もある。怒ることが下手くそだったことで、私の中で止まっている時間軸というものがいくつかあり、成人も過ぎてそこそこ経つしそろそろその辺の止まった時間を動かしたくなった。私が私を動かすためには多分怒るための瞬発力が必要。これが二つ目の理由の根っこにある。
当然止まったままなので成長していないその私のことを世界ではどうもインナーチャイルドと呼ぶことができるらしく、私の用い方が合ってるかはともかくそういった言葉が存在するんなら、ある程度子供の自分を抱えたまま大人になる人が多いんだなという安心感も得た。名をつけることによって恐るるに足らず!出来るのはいいことです。基本的には。黙して隠れることを是とする世界もあるけど、それによって殺されるものの存在についても考えなくちゃいけないのかなと考え始めた時期でもあったので、人生そういうタイミングだったのかもしれない。世界にありふれている子どもたちだけど、私のインナーチャイルドは基本的に私がどうにかするのが一番早い。他者に慰撫してもらうというのは結果的にそうなっただけのことであって、慰撫してもらおうとかしてやろうとかそういうところから始まると多分ろくでもない結果に終わりがちじゃないですか?ごめん異論は認める。本来ならこういう不用意な手つきで触れてはいけないトピックですが問いかけながらも主語を私に絞ることで許されたい。私は他者に慰めを乞い過ぎて慰めようとし過ぎたりでろくでもない結果に終わったことがあります。恥。しかし私が恥じることによって誰かの慰めを求める声を恥と断ずることがあって欲しくはないです。バランスが難しい。
薄さの話に戻る。私のこの薄っぺらさ(と自分を薄っぺらいな!と思う感情)は厚みや自信を持たせるだけの行動、選択を恐れてきた結果である。その恐れはどこに原因があるのかと言うと知る、学ぶ、話すと言った能動的な行動によって不快感をおぼえるのを出来るだけ避けてきた結果ではないか。
なんとなしそういう風にあたりをつけてみた。二十歳を過ぎて数年、ようやっとそれじゃあ対処療法じゃないやり方を人生の中で模索してみようかと怒り方を覚えるところから始めましたが、その結果がバチギレアカウントなので本当に始末に負えない人生である。
不快の因数分解によって分かる自分の薄っぺらさは日々私を打ちのめす。体感としてはこれをやり始めて今のところあんまり優しくやわっこい思いはしていない。決して悪くはないが…。人生のツケを払うという事に対して自分が今になっても気乗りしてないのがわかって更にげんなりする。
私は時々ロマンティックラブイデオロギーを破壊したいと叫ぶが、それは勿論この世の中ででかい顔をしている性愛結婚至上主義に席を譲りな!と思ってるからでもあるけれど、自分の不快の根っこに張り付いたものを丁寧に剥がすのが大変なのでいっそ私ごと爆発して欲しいという自傷願望でもあり、最悪である。
毎日自分に対してのお守りのように唱える「せめてこうありたい」は妥協表現であるくせに簡単にそうあれない。そうあれたことがない。きっとこの先ももがき苦しむ。長々と後ろ向きな割に傲慢な話を書いたけれど、締めぐらい前向きなこと書いとくか。まだ諦めずに済んでいるので、間違えながらやっていくと思います。正しい選択だけをすることは不可能に近いので、間違えた時にどうするかを諦めずにやってくしかない。それを肯定してくれる作品にも出会ったし。
ところでこの文章40分そこらで打ったんですけど、どうしてこれがSSだと上手くいかんのだろうな。
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