ハンニバル・レクター博士の思考実験『獣の刻印』

今から思考実験を行いたいと想います。
わたしはハンニバル・レクターと言う名の精神科医です。
同時に名門大学で社会心理学の教授も務めています。
わたしのことは"レクター博士"と呼んでください。
今からあなたに、素晴らしい思考実験を行いたいと想います。
あなたは今晩、わたしの屋敷の晩餐会に呼ばれます。
何故、呼んだか?
それはあなたが素晴らしい人だからです。
わたしにとって、わたしの晩餐会に呼ぶに"相応しい"。
呼ばれた客はあなた一人です。
何故か?それはわたしの調理した素晴らしい料理を今晩、あなただけに食べてもらいたいからです。
そう、あなたはわたしにとって特別な存在なのです。
率直に言うと、わたしはあなたが好きです。
でもそれは、普通の意味ではありません。
さあ、此処はわたしの屋敷の食卓です。
長方形のテーブルの奥の短辺側の席があなたの席です。
そこに座ってください。
さあ、真っ白なナプキンを襟に掛けてあげましょう。
あなたはとても従順な客です。
だからあなたを呼んだのです。
おや?あなたの頭の傷はどうしたのですか?
まあその話は後にしましょう。
話せば長くなりそうです。
さあ、御覧なさい。この美しさ…
観ているだけでもうっとりとします。
これをわたしが今からあなたの為に調理して差し上げます。
少しの間お待ちになってください。
おや?あなたは待ちきれなくて涎を垂らしていますね。
ははは、あなたはなんと動物的でしょう。
それでこそわたしの晩餐会の客に相応しい。
さあ、とんでもなく良い匂いがしてきましたね。
これを味わえないヴィーガンは本当に哀れです。
何故ならこれは彼らが食べることのできないものだからです。
でもあなたは食べることができる。
あなたは肉食者だと聴きました。
大丈夫、これはあなたのための食べ物です。
あなたはこれを早く食べたくて、獣のように目をぎらぎらさせている。
さあ、後もう少しで出来上がります。
それにしても何という肉厚でしょう。
さあ、想像して御覧なさい。
これは硬いだろうか?柔らかいだろうか?
「ステーキこそが美味しい肉を堪能する真の食べ方だ」
そう誰かが言っていましたね。
これはステーキですか?ウェルダンですか?レアですか?それとも、ミディアム・レアですか?
あなたの今最も食べたい肉料理をわたしは今作っています。
さあ、あなたは唾が溢れるほど溜まってきた。
これはあなたの大好きな食べ物だからです。
あなたは肉食者で、これと同じ肉をたくさん食べてきましたが、今晩の料理はあなたが今まで食べたなかで一番に素晴らしい料理です。
わたしの腕前は確かなのです。
ほおら、信じられないほど良い匂いです。
これをあなただけに食べさせたい。
あなたはこれを食べるに相応しい特別な存在だからです。
さあ、できあがりましたよ。存分に、食べたいだけお食べなさい。
あなたは、まるで飢えた動物のように、目を光らせてわたしが盛った皿の上の"その料理"を、すっかりと食べてしまいました。
あまりに美味しかった為、あなたは6皿分もペロリと平らげてしまいました。

どうでしたか?
その"肉料理"は、美味しかったですか?
さあ、感想を、あなたの頭の中で考えてください。
これはあなたのなかで、最高の食べ物です。
美味しくないはずはありません。
あなたの答えはもう決まっています。
『あまりに美味しくて、涙が出ました。』
あなたはそう言って、わたしに深く感謝します。
そう言って戴けて、真に光栄です。
あなたに"これ"を食べさせることができて、わたしも大変嬉しいです。
涙が出るほどに。
さあ、では当ててください。
あなたの今食べた"肉"は、一体、"何"の"肉"でしたか?
それはあなたの大好物の"肉"と、同じ"肉"です。
素晴らしい"肉"です。

その時、電話が突然に鳴り響きます。
わたしが出ると、テーブルに着いたままのあなたに受話器を渡し、あなたは電話に出ました。
あなたはこのような声を聴きます。
『落ち着いて聴いてください。今あなたが何処にいるか、わたしたち警察は把握しています。レクター博士の屋敷ですね?本当に落ち着いて聴いてください。実はあなたの御家族の全員が、行方不明になりました。一つの置き手紙を残して…そこには、こう書かれてあります。"今晩は遺されたたった一人の人間にとって、最高の料理を遺された人間の為に振る舞う予定です。あなたがたの最も恐れる光景を、あなたがたは観るだろう。料理に使うもの以外すべて、廃棄物としてレンダリングプラントへ運びました。あなたがたは世に最も恐ろしいものを、そこに確かに観るだろう。 "レクター博士より"』

あなたは、わたしに尋ねます。
「わたしが食べた"肉"は、"誰"だったのですか?」
わたしはあなたに優しく微笑んで答えます。
『では御答えしましょう。』
『あなたが最高の料理だと感動して食べた肉は…』
『あなたの"御家族"の、全員の"死体"、即ちあなたがこれまでずっと食べてきた肉と同じ"肉"という食べ物です。』
『部位は、肩ロース、リブロース、サーロイン(腰の上部の柔らかい部分)、ヒレ肉、腿肉、バラ肉、ハツ(心臓)、レバー(肝臓)、ハラミ(横隔膜)、白ホルモン(小腸)、タン(舌)、それから尻肉と、胸肉と、そして頬の肉の最高のアンサンブルです。』

『わたしはこの世で最もあなたにとって素晴らしい"食べ物"、あなたにとって特別な最も美味しい"肉"を、最もあなたを悦ばせる"動物の肉"、"あなたの家族の死体"を食べさせたかったのです。』
さあ、わたしに答えてください。
これはあなたにとって素晴らしい思考実験です。
あなたの御家族の"味"は、美味しかったですか?

レクター博士は、そうあなたに言って微笑みました。









〈作者あとがき〉


まず、この随筆作品を最後まで読んでくれた方達、心からありがとう。
この作品は、わかる人にはわかる、社会心理学者兼ヴィーガン活動家であるメラニー・ジョイという人が以下のスピーチのなかで行った思考実験のパクリである。


Toward Rational, Authentic Food Choices | Melanie Joy | TEDxMünchen
https://youtu.be/o0VrZPBskpg


そしてその思考実験のことを考えていると、最近ようやく映画を観れたハンニバルシリーズの映画のレクター博士が、突然、僕の心のドアをノックしてこう言った。

「わたしに遣らせてくれないかね。」

そして、映画のなかと同じ、不気味な微笑をたたえて去って行った。
そして僕はベッドに横になりながら、想い付くままに、自動筆記でペンを走らせた。
終始、彼はとても嬉しそうだったと、想うだろうか?
僕は、彼のことを、まだ全然知らない。
まだ『羊たちの沈黙』と『ハンニバル』と『レッド・ドラゴン』の三作品しか観れていない(何故、今になって急にこのシリーズを観たかと言うと、映画『ファイト・クラブ』を最近観て、エドワード・ノートンが好きになり、彼の出演する『レッド・ドラゴン』を観るためだった。)し、レクター博士が僕に話し掛けた後に、初めて彼のウィキペディアを観て、彼の半生を、ほんの少しだけ知った。
確かに僕は彼のことを、まだ何も知らないのかも知れない。
だからこそ、僕だけのレクター博士を創り上げようと想ったんだ。
彼の半生も、僕は書き換えた。
そして僕だけの、愛するレクター博士が誕生した。
彼は僕に向かって、或る晩、こう言った。
「その思考実験とやらを、わたしにさせて貰えるかね。」
そして悲しみで燃え上がった目で、彼は僕の部屋を出て行った。

短い作品だけれども、吐き気をこらえながら、僕は初めてこんな作品を書いた。
これは実はフィクションではないんだ。
僕の、実体験を、元にしている。
誰かはもう知っているだろう。
僕の本当に、生涯トラウマで在り続ける悲惨な過去を。
僕は僕のせいで最愛の父を死なせてしまったと信じている。
それが僕の人生のなかで、一番の僕を苦しめ続ける後悔だった。
”それ”を知るまでは…
僕は2012年、”それ”を知った。
その実体験を元に、この作品を書いた。
僕に乗り移った僕だけのレクター博士、それは紛れもなく、”僕自身”だ。
そして被験者である”あなた”は、かつての”僕自身”である。
僕はこれと全く同じ体験をしたんだ。
もう僕の言わんとしていることが君にはわかるかもしれない。
そう…2012年2月、僕であるレクター博士は、僕にこう言ったんだ。

「あなたが今まで美味しいと感じて食べてきた肉。それは…」
「あなたの愛する家族の死体です。」

レクター博士は、僕の潜在意識であると言って良い。
彼は、わかっていたんだ。
僕は僕の愛する家族の死体を食べ続けているということを。
だが彼は、顕在意識である僕に、30年もの間、それを教えてくれはしなかった。
彼は笑みをたたえて、暗い影からひっそりと、僕をじっと見つめていた。
そして時に、彼は悲しみに打ち拉がれて泣いていた。
「苦しい…苦しい…あなたはいつまで、わたしの家族を殺して食べ続けるのか。此処は地獄だ…」
僕は実は、彼の苦しみ、悲しみに、本当は気づいていた。
シリアルキラーの悲しみが、僕にはわかるような気がする。
佐川一政の悲しみに、共感の涙が零れたこともある。
僕はわかっていたんだ。
それは僕の家族の肉だと。
なのに何故、食べ続けてきたのか。
自分を破壊し続けるためにか。
レクター博士は、そう僕に訊ねた。
悲しみに、目が真っ赤に充血していた。
彼は全身を震わせ、瞬きをしない見開いた目から涙を溢れさせて僕に向かってこう言った。
「あなたは何故…何故…自分の家族を食べたのか…」
僕は暗闇の底で、こう答えた。
「想いだしたよ…君は11歳の時に、或る日対独協力者に出された皿の上に、とんでもなく、生唾の込み上げてくるほど、食欲を唆る食べ物を観た。」
「そして言ったんだ。”これを食べてもいいの?”彼らは黙って頷き、こう返した。”生きたいなら、食べろ。食べなければ、死ぬかも知れない。”」
「君は手にとって、無我夢中で貪り食べた。その肉を。その骨を、しゃぶり尽くした。」
「そして、恍惚な感覚に浸り、神に感謝して言った。”なんて美味しい食べ物なのだろう!”」
「後になって、君は真実を知った。その肉が、誰の肉であったのか。」
「両親が死んで、君の愛する家族はたった一人、妹だけだった。君は妹を溺愛していた。」
「飢えを満たす為、生き抜く為、君が味わって美味しいと言いながら食べた肉とは、君の最も愛してやまない妹の肉だった。それは彼らに解体された妹の死体だったんだ。」

レクター博士は、涙が枯れ、一点を見つめて力なく垂れた首を横に降った。
「そうです。わたしは…あれほど美味しい肉を…食べたことはありません。何処にもないのです。あんなに、美味しい死体は…」
そして彼は優しい顔で僕に言った。
「あなたは最早…家族の肉を、家族の死体を食べなくとも良くなった。あなたは救われたのです。あなたは神によって救われた。あなたは家族を殺さなくとも、生きて行けるのです。あなたは生きている。あなたは生き続ける。永遠に。永遠に、あなたは愛する家族の死体を食べた罪と、家族を食べる為に殺し続けた悲しみは永遠に…あなたのなかに存在し続けるのです。」













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