微笑みを

 八畳の部屋の隅に置いてある黒くて四角いブラウン管のテレビは、毎朝寝ぼけていることを理由に働こうとしない私たちの脳を起こすためのBGMとしてつけられているがそれ以上の意味を持つことはなく、ただただ垂れ流されている。
 白い靄のかかったような思考でぼんやりとテレビを見ていると女子大生の自殺のニュースが取り上げられていた。そのニュースを見たとき、脳を直接揺らされ、殴られたような強い刺激を感じた。小さな花柄が散りばめられた白いワンピースに艶やかで長い黒髪、黒いマーカーで出鱈目な言葉が並べられたが白い画用紙を胸の前に掲げ、少し恥ずかしがった表情で写った写真が画面いっぱいに映された。
「〇〇大学・〇〇部の〇〇さん21歳………。」
女性キャスターの原稿の読み上げに合わせるように写真がいくつか切り替わっていく。
 真っ青なワンピースに髪はショートボブ、胸の前には出鱈目な言葉の書かれた画用紙と冷たい表情の彼女がこちらを見つめる写真。次は、薄黄色のワンピースで肩まで伸びた髪は茶色く染まり、出鱈目な言葉の書かれた画用紙を持ちながら満面の笑みで楽しげに写る写真だった。全く別人のように映る彼女の写真を見た私は画面に吸い寄せられるように見入り、彼女に魅了されてしまった。
 彼女と同じ大学に通っているであろう女性は、「彼女の印象について」という表面だけを探るような内容の薄いインタビューに対して、
「とても物静かで真面目な子でした。友達が多いイメージではなかったですけど、たまに飲み会とかにも顔を出したりしていて……。」
彼女のことを脳の片隅にも留めることさえせず、薄い印象を掬い上げて繕って並べただけの人間の吐く戯言に、巨像でしかない価値を与え、それを彼女の評価とするこの秩序のない行為に意味はない。それでも淡々と続けられる光景を画面越しに眺めることしかできずいた。ただ胸が痛かった。
 続けて「最近の彼女について」と聞かれると、
「いつ頃だったかわからないんですけど、学業や人間関係でうまくいかなかったみたいで…。精神的に病んでしまったらしくて、人が変わってしまった。」と言っていた。正直、お前に何がわかるんだ!と声を荒げたいところだったが、俯瞰して状況を整理した時、所詮私も他人でしかないことを確認し、怒りを鎮めることにした。
 画面に表示された写真の彼女はそれぞれの写真に別人のように写る。それは一般的に行われるイメージチェンジの許容をゆうに超え、今までのイメージを殺す、いや、自分を殺す、そのような狂気さが三枚の写真を見た時から感じ取ることができた。逆に言えば、それが人を惹きつけるトリガーになってしまったのだと思った。
 このニュースが世間に知れ渡るのに時間はかからなかった。画面に映されたすべての写真に共通している出鱈目な言葉と画用紙はすぐにネットで話題になり、分析を始める人が続出したが、ネットとは優秀なものですぐに「あの文字は鏡文字を逆さまにしたものを後ろから読むと言葉が浮かび上がる」とすぐに解明され、すぐに多くの憶測が飛び交った。
 彼女は必死になって助けを求めていた。自分が誰かに奪われてしまう前に、誰かに壊されてしまう前に、誰かに殺されてしまう前に。毒に侵されたように少しずつ弱る自分を俯瞰した彼女は、自分以外の身の回りの人や遠い誰かへ助けを求めるべく、画用紙とペンを手に取り、写真に収めた。しかし、彼女のその努力は実ることなく、後の祭りとなってしまった。これは、私の憶測でしかなく、その範疇を出ることは決してない、そして、許されない。そのことを私たちは身に刻み生きていかねばならない。
 ニュース番組の最後。ある海岸の崖の下、浅瀬の海の一部分を取り囲むようにテレビ局のヘリコプターや警察が大勢乗ったゴムボートが集まり、一点を見つめていた。その視線の先には、彼女の遺体があった。レースのように白く薄いワンピースと黒く長い髪が波と一緒に揺れる。閉じ切らず薄く開いた瞼から見える真っ黒な瞳にはもうすでに光はなく、口元は薄っすらと笑みを浮かべていた。何かを願うかのように胸の前に手を組んだ彼女の遺体は果てのない海を漂うことなく、この場所に佇むように浮いていた。彼女は美しい姿のまま、永遠の中を彷徨うことを選んだのだ。
 私はリモコンを手に取り、静かにテレビの電源を落とした。