形を失くしても、尚

 私は近くにある警察署へと転がり込むように駆け込みました。
「あの、すみません。」
私の目の前を横切る青い制服を着た女性警察官に声をかけて呼び止めると、慌てた私の様子を見て、
「落ち着いてください。どうされました?」
と優しい口調で対応してくれました。乱れた息を整えながら、
「あの…。私の大切な人と昨日から連絡がつかなくて。」
そう言うと女性警察官は冷静に、
「とりあえずゆっくりと深呼吸をして落ち着いてください。お話はこちらで聞きます。」
と、小部屋に連れて行かれました。
 女性警察官は部屋の前に立ち、ズボンにぶら下げられた鍵の中から一つを選び出して解錠すると、「こちらへどうぞ。」と私を部屋の中へと誘導しました。部屋の中には、銀色の机が一つ。その机を挟み、対面するように置かれた二つのパイプ椅子。そして、隅の方に一人分の机と椅子が置かれ、サスペンスドラマなどでよく見る取調室とさほど変わらない配置をしていてなんだか現実味がありませんでした。部屋中に漂うよくわからない緊張感と自分の奥底から湧き出る不安に襲われながら立ち尽くしていると、「こちらへ座ってください。」と誘導され、静かにパイプ椅子へと腰を掛けると、女性警察官はメモをとりながら質問をし始めました。
「あなたがここにきた理由をできる限り細かくお話ください。」
真っ直ぐと通るその声はバランスを失った私の平常心へ語りかけるようでした。やっと落ち着きを取り戻した私は、順を追って説明することにしました。
「一昨日の夜に連絡をしたきり返信がないんです。普段から連絡をまめにしてくれる人なので、今までこんなことはなかったんです。」
「そうですか。その方のご自宅には行かれましたか?」
「はい。でも、呼び鈴を鳴らしても出てこなくて。合鍵などは持っていないので中には入っていないです。」
「わかりました、すぐに捜索願を出します。そうしたら、私と一緒にそのご自宅へ向かいましょう。」
 女性警察官の落ち着いた口調はじりじりと押し寄せる私の不安を逆撫でるようでした。女性警察官は「ここで少し待っていてください。」と言い残すと速やかに部屋を出て行きました。
 ここで待つように言われたものの、どうしたらいいのかが分からず、常に頭の中では最悪な状況を想像しては掻き消すのを何度も繰り返しました。心のゆとりがない代わりに保険をかけることが必要だったのでしょう。無数にある最悪のケースを想像しておけばその状態に出くわしたとしても、落ち着いて対処することができると、いつかのテレビ番組で聞いたことがあったのだけれど、実際は気が動転してしまい、その現実を受け入れるどころかそれを超えてしまうかもしれない。必ずしも人間の理性が正しい大きさを維持したまま形を保てるわけではない。そんな無力な私を恨みながら、ただ神に祈るばかりでした。
 ドアの開ける音と同時に女性警察官は「こちらへ。今から現場へ向かいます。」と告げられました。私は、女性警察官の跡を追いかけるようにしてついてゆき、パトカーに乗り込みました。サイレンの大きな音は落ち着きを無くした心をさらに騒つかせ、より一層余裕を無くしていきました。狭まる視界と正常に動かなくなった思考の中、
「落ち着いて聞いてください。」
と声が聞こえた。掠れた声で返事を返すと、車内の空気が一気にピリつき、女性警察官が淡々とした口調で話を始めました。
「これから現場へ向かいます。どんな状況になっているのかはっきりとはわかっていません。心の準備をお願いします。」
「あの、えっと…。どういうことですか?彼は無事ではないのですか?何かあったのですか?」
理解が追いつかないこの頭で精一杯に考えた言葉を絞り出しました。
「高い確率で最悪のケースが予想されます。」
そう告げられると、頭の中が真っ白になってしまい、気がついた頃には彼の家に着いていました。
 二階建てアパートの二〇三号室。そこに群がるように大勢の警察官が集まっていました。その時の私は、張り詰めた糸が切れ、体と心が乖離してしまったかのようで、第三者の目線で物事を捉えていたせいか妙に冷静にいられました。「さあ、行きましょう。」と声をかけられて車を降り、急いで部屋へ向かいました。
 ドアを開けて中へ入ると、玄関には彼がいつも履いていた靴が何足か置いてあり、廊下にはいくつかの絵画が飾られていました。廊下の突き当たると少し広めのリビングがあるが、カーテンが閉ざされていて真っ暗でなにも見えませんでした。しかし、腐ったような気持ちの悪い臭いが充満しているのはすぐにわかりました。現場にいた警察官が電気をつけるとそこにはバラバラに切り刻まれた彼の姿がありました。私はその場で崩れ落ち、近くにあった彼の足を拾い上げて強く抱きしめながら、
「どうして…なの?なんでこんなことに。」
私の嗚咽だけが響く空間の中、私を連れてきてくれた女性警察官が
「必ず、犯人を捕まえて裁きを与えます。こんなことがあって良いわけがないのです。」
その声に反応するように顔を上げると、両目から大粒の涙を流しながら強い眼差しを私に向ける彼女いました。私は彼女を見つめて、
「必ず…必ず…捕まえてください。彼を…救ってあげてください。」
そう言うと、私のそばへ近寄り「必ず…」と力強い一言を残していきました。
 薄暗い部屋の中で彼は私に背を向けるように座り込んでいました。部屋の片隅で立ち尽くしていると、彼はこちらに気が付き、立ち上がって私のそばに近寄りました。私をそっと優しく抱きしめ、「本当にごめん。」と震えた声で言いました。うまく動かない体を必死に動かし、震える手で彼の顔に触れながら、
「私はあなたに触れられることが、あなたが目の前にいることが本当に嬉しいの。だから謝らないで。私はあなたがどんな姿になろうと愛しているわ。」
滲んだ視界で彼の目を見つめながらそう言うと、
「僕も愛しているよ。こんな形でしか伝えられなくてごめん。もっと早く伝えるべきだった。」
と彼は涙を流しながら言いました。私は強く抱きしめ返し、
「私はいつまでもあなたのことを愛し続けるわ。」
そう伝えたときには彼の姿はなく、部屋の中にただ一人残されていました。
 私たちが幸せになることは許されなかったのでしょうか。