生と死から考える自らのレゾンデートル(3)

前回の続き。パート3です。

前世から現世に生まれ変わる時に失われたものとして私が最初に思い浮かんだものは、「記憶」だった。私が思うに、人間の共通部分を取り除いたときに唯一残る特有のものは頭の中、すなわち「記憶」であると解釈した。「記憶」がその人の人格を構成していると述べても過言ではない。この考えに思い至った時、私は次のようなことを考えた。「人間は、実は脳みそしか存在しなくて、自分自身の体、目の前に見えているものすべて幻想なのではないか?」と。誰も、目の前にいる人間が本当に人間かどうかは殺してみないとわからない。ゲームの世界のように、0と1だけで構成されたデータの可能性だってある。だとしたらナイフで刺したとしても血というものはでないだろう。仮に血が出たとしても、そうプログラムされたものと考えることだってできる。さらに、その考えを裏付けるものとして宇宙の存在があると私は考える。この世界に、宇宙の始まりを自らの目で見た者は存在するだろうか?この問いに関しては誰もいないと断言することができるのは自明だろう。だいたい、なにもない点からビックバンが生じて宇宙が生成されたなんて考えは実にナンセンスな答えだ。私たちの想像の範疇を大幅に超えている。つまり何が言いたいのかというと、実はこの世界はバーチャルリアリティーなのではないかということだ。すなわち、かなり精巧にできたゲームなのではないかということである。この仮説を踏まえると色々つながってくる。まず、だれがこのゲームを作ったか。私は、人間よりはるかに高い知能を持った生物なのではないかと思う。以後、この創造者を「X」とおく。我々は今まで数多な実験をしてきた。その中にはクローン実験や遺伝子組み換え実験など、生物に関わるものもたくさんあった。だとしたら、我々自身も「X」のような高知能生命体に実験されていると考えてもおかしくはない。「X」からすれば宇宙なんて、人間がカブトムシを虫かごで飼っている感覚にすぎないだろう。この世界がバーチャルリアリティーであるという過程は、一見科学的な考え方のように思えるだろう。しかし、そうではない。「X」が、宇宙空間というゲームを作ったとしたら、この世界の存在を根拠づけるという意味で、「神」なのである。だとしたら、多くの進化論者(科学絶対主義)も創造論者の考えを理解することが可能になり、その逆もまたし然りである。さて、この世界がバーチャルリアリティーであると仮定したとき、「死」とは我々にどのような意味をもたらすだろうか?