生と死から考えるレゾンデートル (2)

続きです。 十牛図からの考察

前世の存在を意識したとき、何を前世でやり残して現世に生まれてきたのか。その何かが分からない、足りないと思い悩むだろう。しかし、この「喪失感」に意味があると私は考える。この私の疑問に対して「十牛図」は少し貢献した。十牛図とは12世紀頃に作られたもので、10枚の牛の絵が番号順にストーリー形式で描かれているものである。「十牛図」の解釈は様々であるが、私は牛を「前世の自分」、旅人を「現世の自分」と考えた。今回は「廓庵十牛図」を用いて、自らの考察を述べる。第一図尋牛では、旅人が牛を探す場面から始まる。人生という旅で、生きる意味を見失ってしまった人間が、「何かが足りない。何かが失われている。」と、己を探求し始める場面と解釈した。そして第二見跡、第三見牛と、失われていた「何か」に手がかりを見つけて、それを追っていく。何故生まれてきたのかをカントの現象世界で考えたとき、この牛こそが「前世の自分」なのであり、生まれてきた原因を孕んでいるのではないかと私は考えた。さらに、第四得牛、第五牧牛と「前世の自分」と対面し、一緒に行動することで自らが前世でやり残したことを考える。しかし、相手は牛だ。口はきけない。第六騎牛帰家では、現世で何をやらなければならないのかと考えながら、牛を連れて家にかえる。もちろん正確な答えを得ることはできない。第忘牛存人で、牛はいなくなる。生きる意味が分かったような、分からないような、そんな曖昧な気持ちが残った状態で絶望に落ちる。第八人牛俱忘では大きな丸だけになる。仏教では、円は悟りを意味するものだ。生きる意味を追い求めていた自分自身に虚無を覚える。第九返本還源、「本」や「源」といういわゆるゼロに、「返」や「還」が表しているように立ち返る。わたしはこれを生まれる前と生まれた後の境界に立ち返ることであると解釈した。つまり「前世」と「現世」の境界である。ただここでも行き詰まる。自分の中で考えをいくら巡らせても、出うる答えはある一定のラインでとまってしまうからだ。最後に第十入鄽垂手。自分ひとりで考えを巡らせても答えはでないと悟った旅人は、市場に出て人と話す。なぜあんなに悩んでいたのだろうと思い、己の愚かさに気付き世俗に戻る。以上が私なりの考察である。何かはわからない「喪失感」は、自己を探求するのに一役買ったが、あくまでもその「きっかけ」に過ぎなかった。第十場面でもわかるように、旅人は自己探求の愚かさに気付き、考えることをやめている。では、どのようにすればその「きっかけ」をうまく利用することができるのか。カントのいう通り、すべての出来事が必然であるならば、今こうして悩んでいることにも意味がある。何かはわからない「喪失感」を仮定しない限り先には進めない。