統一教会の広告塔にされた?ゴルビー
ミハイル・ゴルバチョフ氏は、プーチン大統領が始めたウクライナ侵略を憂慮していたが、終結を見届けることなく2022年8月30日に生涯を閉じた。91歳だった。入院していた病院は死因を明らかにしていないが、長期にわたり病気を患っていたという。ゴルバチョフ氏は、ウクライナ侵略開始直後の2022年2月26日に発表した声明で、「相互の尊重と互いの利益の認識を基礎にした交渉と対話が、深刻な矛盾や問題を解決する唯一の方法だ」と訴えていた。ゴルバチョフ氏の母はウクライナ人。1999年に白血病で死去したライサ夫人もウクライナ人だった。
ゴルバチョフ氏は、1931年に現在のロシア南部スタブロポリ地方の農家に生まれ、1955年にモスクワ大学法学部を卒業し、共産党官僚としてエリートコースを歩んだ。54歳だった1985年、ソ連の最高指導者である共産党書記長に就任。1986年には「ペレストロイカ」(立て直し)を掲げ、ソ連の改革を推進し情報公開も進めた。対外関係では「新思考外交」を展開。1987年12月8日、ロナルド・レーガン米大統領と中距離核戦力(INF)全廃条約に調印した。1988年4月14日、ジュネーブで、アフガニスタン、パキスタン、ソ連、アメリカの外相が出席して、アフガニスタン和平のための合意文書に調印。アフガニスタンに駐留していたソ連軍が撤退を開始し、翌1989年2月15日に完了。東欧の社会主義国に対する支配を放棄した。1989年にはジョージ・ブッシュ(父)米大統領とマルタで会談して冷戦の終結を宣言。国際社会の構図を対立から共存へと転換させた。1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊し、翌1990年10月3日には東西ドイツが統一された。1990年3月に大統領制を導入し、ゴルバチョフ氏がソ連大統領に就任したが、急激な改革は保守派の反発を買い、深刻なモノ不足など国内に大きな混乱をもたらした。1990年にはノーベル平和賞を受賞し、国外での評価が高いゴルバチョフ氏は「ゴルビー」の愛称で親しまれた。1991年4月に日本を訪問。海部首相と署名した「日ソ共同声明」では、北方4島の名前を挙げて領土問題の存在を認めた。ボリス・エリツィン・ロシア共和国大統領が1991年12月のソ連解体を主導し、ゴルバチョフ氏は国家元首の座を追われた。ロシア国内では、ゴルバチョフ氏が超大国を崩壊させ、国民生活に混乱をもたらしたという見方が定着し、プーチン氏が強権統治による長期支配を続ける格好の材料にもなった。プーチン大統領は2022年8月31日、前日に死去したゴルバチョフ氏の遺族らに弔電を送り「世界の歴史の歩みに巨大な影響を与えた政治家だった」と哀悼の意を表した。
統一教会は、1980年代からソ連で活動を始めていた。ペレストロイカが始まると、布教活動を活発化。1990年には統一教会創始者の文鮮明(ムン・ソンミョン)氏が、ソ連の国家元首だったミハイル・ゴルバチョフ氏と面会。クレムリンの敷地内にあるウスペンスキー大聖堂(ロシア正教会の大聖堂)で、統一教会の儀式を行なった文鮮明氏は、「統一教会は、やがてロシアで国教として受け入れられるだろう」と発言したという。統一教会は、莫大な資金を注ぎ込んでロシア教育省と太いパイプを築いた。担任するクラスのすべての生徒を統一教会の儀式に連れていった学校の教師が、フランスのテレビ局に取材を受けることもあった。統一教会が作成した「Мой мир и я(私の世界と私)」という教科書は、ロシア全土のおよそ1万の学校で採用された。多民族国家のロシアで布教するにあたり、地域によって主張を変えていた。統一教会は、仏教国・カルムキヤ共和国の首長と関係を築き、共和国内の全ての学校では「私の世界と私」が採用された。ロシアでは、親の意に反して子どもが入信してしまうケースが目立ったという。霊感商法や寄付などで日本は統一教会の資金源になっているが、当時のロシア市民は寄付できるほどのお金を持っていなかった。注いだ活動資金の額に比べ結果が見合わなかったため、文鮮明氏はロシアへの関心を失った。ゴルバチョフ財団は、統一教会の資金で運営されてきた。しかし、ゴルバチョフ氏はロシアでは人気がなく、望むような影響力を持てなかった。オウム真理教の危険性がクローズアップされ、統一教会も同じではないかと社会全体が危機感を抱き始め、さらに、2012年の文鮮明氏の死去とそれに伴う家族間の継承権争いによって、ロシアでの統一教会の衰退は決定的となった。
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