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御朱印集め

「御朱印って知っとる?」
「うん」
「御朱印帳は?」
「うん。知り合いが2人持ってた」
「あれええなぁ。そっち有名どころ多いやろ。一冊分もろてきて」
「そういうもんとちゃうやん」
「はは、それも知っとったか」

長らく、神社と寺、神様と仏様の違いがあやふやだった半分異国育ちの私でも、御朱印集めがスタンプラリーではないことは知っている。
「自分で行き」
「めんどい」
「なんやねんそれ」
夏までに二度断ったが、閉じこもる生活にも飽きてきた。この近隣のお寺や神社に行くのならソーシャルディスタンスも保てるだろう。息抜きと感染症終息祈願という名目で出かけるのも悪くない。ただし、御朱印帳代金と御朱印をいただく際の料金は向こう持ちだ。

「はじめまして(おひさしぶりです)。〇〇から来ました、島バナナ(もちろん本名を名乗る)と申します」と自己紹介をした後は、手を合わせたまま身体も頭も止まってしまう。御礼や感謝を先に述べてから願いごとをという参拝のマナー的なものがあるらしいが、いつだって(えーっとなんだったっけ? ??? まぁいいや黙って静かに祈っておこう)となってしまう。私は、真に切実な願いを持って神社仏閣を訪れたことはなかったのだろうか。そんなはずはないんだけど。でも、まあ、黙祷状態の私から御神体や御本尊めがけて、無意識下の本当の願い的なものがビュンビュン飛んでいってるんだろうよと思う。よって、私が感染症の終息を望んでいるのなら届いているだろう。

初心者でかつ動機が若干不純なので、御朱印帳を差し出す時は毎回ちいさくドキドキした。預けて参拝している間に書いてもらうことも、目の前で書いてもらうこともあった。お坊さんや神主さんが筆を持つことも、そのご家族とおぼしき人の手にによるものも、御朱印専属で何十年風の人もいた。
帰宅してから開いてみると、なるほどこれは集めたいって思うわという見事な御朱印が多かった。力強く舞っているもの、飛ぶも止まるも自由自在なもの、すっと佇んでいるもの。そして、飾り気のない丸太のような、若枝を実直に重ねたような墨書きもいくつか交じっていた。数百円で書いてもらってるけど、これ書き損じとか書き直しとかできないんだよなぁ。

最後の3枚を残したところで、御朱印帳を彼に送った。残りは近所を自分で回ったらええ。そしたら自分で完成させた体になるかもやで。
送った後に、結婚した翌年の年賀状のことを思い出した。今は無きプリントごっこと住所のみのスタンプを使って作成した。連名の必要がなさそうな人に出す分には自分で署名して投函してねと渡しておいたら、夏を過ぎたあたりで手付かずのそれを発見して唖然としたことを。また同じ結果になるかもしれないけど、知ったこっちゃない。

「今、2冊目やねん」
春日大社で買った新しい御朱印帳をスマホの画面に映す。
「それは自分の分か?」
「自分のやったら、これまで回ったとこの綺麗なのだけ、も1回もらいに行くわ」
「ゲスやのう」
「君に言われたないわ」

一緒に住む暮らしが倦んできた頃、彼が吐き捨てるように「割れ鍋に綴じ蓋やないか」と言ったことがあった。たぶん「そんな鍋要らん」と返した。
私は自分は蓋だと思っていたらしい。彼自身はどっちのつもりだったんだろう。



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