幼児期は母親役が主役であるという思想

私は「子どもが一家の中心、主役である」という理想が存在するように思っている。子どもは家族の中で最も先の未来まで生きる可能性がある人格なので、それは正しい。そんなわけのわからない言い方をしなくとも、両親がこの世に誕生させた「我が子」を第一にすべきだというのは、概ねして当然のことであると思う。

それはそうなのだが、とかく幼児期においては「母親を中心に家族を運営すべき」のように私は思う。その理由を以下に述べる。

その前に。タイトルだけで判断すると「教育=女の仕事論」みたいにもとれるので、補足しておく。あくまで「母親役」である。「乳母」といってもあながち間違いではないかもしれない。つまり、「赤子に母乳を与えるかのように、赤子と長い時間を共に過ごす役目を負った親役の人」である。当然、女性じゃなくてもできる。

母親役は「我が子」に最も近い大人

距離的なニュアンスである。この「距離」というのは、肉体的なものと精神的なものをイメージしている。

父親(とりあえず遺伝子提供者とする)は、所謂「生みの苦しみ」の一切を自分の肉体で感じることが出来ない。この為、生まれた我が子に対して「この子は本当に自分の子どもなのか」と疑念を抱くことがあるのだという。無論、これは「本当の遺伝子提供者ではない」という可能性だけの話ではない。もっと抽象的な確信の話である。

母親は、自らの体内で子どもを育てる経験をする。生まれた我が子は自分の分身のようなものでもある。

こうして、父母の経験の違いから、受け止め方が違うことを考慮すると、生まれた「我が子」に対する執着や精神的な重要度は変わってくることが予想できる。勿論、これは個人差があって当然のことで、我が子を苦手とする母親もいるだろうし、母親と同等以上に愛着を持つ父親もいるだろうと思う。

そして、冒頭で「あくまで母親役」と注釈をつけた。所謂、「お腹を痛めた実の母親」の存在感は極めて大きいとしたところであるが、仮に、産み落とした後に「乳母のような存在」が赤子に付き添うようになった場合、「実の母親」の存在感、重要度は大きく減少する。「現在進行形で、子どもに最も長く付き合っているのは誰なのか」ということである。

子育ては大変だということ

先に言っておくが、私は所謂男性であり、独身であり、子どもの遺伝子提供者になったことはないとはっきり言える。い、いや、性経験はあるよ! 遺伝子提供はしていないという話だ! ぐぬぬ、寂しくなんかないもんね!

しかし、子育ては大変であると感じる。なぜならば、親類の幼児を預かる経験を少なからずしているからである。まー、疲れるよ! 可愛いけど、疲れるよ!「可愛いからいいじゃん、我慢できるでしょ」ではないんだな、これが!

子育ての大変さは本物のお母さん達がたくさん訴え、教えてくれている。だから、ここで語ることはしない。しないのだが、「大変なのだ」ということは強く言っておきたい。

その意味で言えば、「育休」というのは素晴らしい仕組みである。しかし、旦那が大臣の仕事を育休でやらなかった挙句、子どもが3歳にも満たないのに両親揃ってお仕事に出た人たちには疑問と違和感しか覚えない。誰が子どもの面倒見てるの? だったらなんで育休とったの? 本当に必要な育休だったの?

ともあれ、子育ては大変なので、養育者が精神的におかしくなるのはなにも不思議なことではない。だから、養育者を助けてやりたいというのは、世の中の「流行」として間違っていない。だが、ここで間違ってはいけないと思うのである。「子どもを大事にし過ぎる」あまり、「養育者をないがしろにしてはいけない」ということである。

子どもを育てるのは親のつとめなのだから

子どもを育てるのは親の務めである。これは理屈ではない。当たり前のことである。

だから、「子どもの為に死ぬ気で頑張れ」と「言い過ぎて」、「親を殺してはいけない」のである。子どもの為を思えば、親には親の務めを果たしてもらうのが一番良いことなのである。「ダメな親」だからといって、「失格だ!」と追い詰める意味など、子どもにとって存在しない。

必要なのは、「親が子どもを育てられる」ようにすることである。「親の良し悪し」を問うのは、その「最低限の務め」が出来るようになってからでなければいけない。最低限が出来ないままというのは家庭の崩壊といえ、「みんなが大切」だとする「子ども」が犠牲になる。もう一度言う。親を追い詰める必要は無い。

子どもの面倒を見る母親役を尊重したい

いちばん大変な部分を担ってくれているのが母親役である。だから、「子どもを一番に考える」ならば、まず「母親役」を大切に考えて欲しい。断罪されるべき悪しき母親役というのは、「尊重されているのにも関わらず、育児を放棄する」場合にのみ存在する。社会的に罰を受けてきた虐待加害者の母親達は、本当に尊重されていただろうか。

子どもを誕生させる覚悟とは

「親なんだから頑張らないと!」という意見の背景にこれがある。所謂、「生んだ責任」である。個人的に、これは「不完全な正論」という感じがする。

私は哲学かぶれなので、個人の人格を尊重する視点から、「自分がこの世に出現したことは、両親の意思による結果」みたいなことを考えてしまう。要するに、「親は子どもに責任を持つ」という意見は「正しい」。

しかし、その一方で、教育業に片足突っ込んだ経験から「他人を預かるということは死ぬほどしんどい」とも思っている。私がお預かりした子ども達は10歳とかそのくらいの発達段階だったが、彼らはとりあえず会話できるし、自分でお手洗いに行ったり、食事を摂ったりすることが出来た。だが、生まれたばかりの赤子はそんなこと出来ない。他人にやってもらわなければ、生きていけないのである。母親役は重い「他人預かり」を休む間もなくやってくれているのである。覚悟が無いといけないとか、そんな程度の話ではないのである。

確かに、責任はある。だが、実際にかかる負担は恐ろしいという言葉よりも遥かに重い。子育てに注力できる環境ならまだしも、家事や他のことをやりながら片手間で出来るような仕事ではないのである。肉体作業的な負担だけではない。24時間を子どもに支配され、その為に稼働させられることがどれ程の心的負担になることか。

私は言葉が好きである。だが、こういう場面において言葉は万能でも有力でもないと感じる。覚悟等という言葉はあまりに軽い。少なくとも、子育てに心身を削られる辛さを知らない者が口に出す言葉であると思う。経験者が使うとしたら、「あなたは恵まれていた」と言いたい。誰にも頼ることが出来ない人もいるということを想像して欲しい。「それは甘えだ」とすら言うならば、是非とも同じ人生を実体験して欲しい。「そんなことは不可能だ」と言う返答こそ、「想像力の稚拙を取り繕う甘えである」。

しかし、子どもの為に何が何でも「頑張って欲しい」という気持ちは理解できる。この「何が何でも」みたいな部分について、私は、「自分では無理だから、他人に助けを求める」ということも「頑張り」であると思う。恥ずかしいのは当然である。悔しいのは価値観によるかもしれない。だが、これを「甘い」という意見は間違っている。「助けを求めること」を「甘い考え」と一蹴するのは、必死になったことがない人間ならではの考え方である。「私は助けなんて求めなかった」というのは個人によって異なる好き嫌いの話だ。「恥も外聞も棄てて助けを求めた」ことのどこに甘さがあるというのか。「他人を頼る考えが甘い」というのはあまりに料簡が狭い。「他人を頼り、利用してでも」というのが、本当の「手段を選ばない」という頑張りである。「他人には頼らない」という思想は、既に「手段を選り好みしている」のである。「選ぶことすらできない」場合を考えれば、十分恵まれているといえる。

育児は、そこまで必死になって良いことである。恥ずかしいかもしれないが、本当は全く恥ずかしいことではない。立派なことである。

私は教員時代、子どものことを学校任せにして文句だけは言う「親御さん」という人達のことが心底嫌いだったが、「お母さんという存在は凄い」「敵わない」と今でも尊敬している。

終わりに:まず母親役を支えたい

イクメンという言葉が嫌いだ。いかにもファッション染みた言葉だからだ。単なる女性蔑視、性差別という以上に程度が低く、幼稚な言葉だと思う。付け加えて、最初にこの記事のタイトルについて説明したものの、やはり「母親役」という言葉も引っかかりを覚える。勉強不足を感じる。

ところで、この文章を考えるきっかけは私の大切な友人との会話であった。姉夫婦のところに赤ちゃんが生まれたのだが、旦那さんが問題ありで困っている(というよりは憤懣やるかたなしという感じ)。「子どもを一番にしっかりして欲しい!私が言ってやる!」と彼女は怒っていたのだが、私は「奥さんにストレスかけるとヤバイ気がする」と直感したのである。ついつい持論をぶってしまったのだが、さて、彼女は不満だっただろうか。

文中でも述べたが、このケースについての彼女の「子どもが一番」という考え方は正しいと思う。私はそこに「子どもが育てられる環境」を考えてしまうのである。かの赤ちゃんにとって最良なのは「両親にちゃんと育ててもらうこと」である。次点は「ちゃんと育ててもらうこと」である。育てる大人が両親でなくとも構わない。逆に言えば、ちゃんと育てられないのなら、実の親だろうがダメだと思う。両親が揃っているかどうか等は関係ない。要は育てる大人が「ちゃんと親をやれる」なら誰でも良いと思うのである。

このケースの場合、母親がどこまで「親であり続けられるか」が気になる。仮に「旦那がダメなので別れます」となった場合、母親はちゃんと親をやり続けられるだろうか。また、私の友人の勢いのままに、両親を叩き直したとして、彼らがちゃんとした親をやれるだろうか。「親族に怒られたから」等と言う理由で、「良い親」が爆誕するものだろうか。

まあ、そもそも、両親が我が子をどの程度愛しているのか、私は彼女から聞いていない。彼女が心配し過ぎだったとか、そういうオチだったらいいなと思う。

おまけの余談

「お母さんね、あんたの夜泣きが酷くって、『こんな子もういらない! 捨ててやる!』って叫んだことがあるんだよ」
と、母方の祖母に何回か教えてもらったことがあるのをよく覚えている私です。誤解のないように言っておくと、祖母はハッキリ物を言う性格で、笑い話にしていたのです。

子育てって大変なんだ、と思った、一番最初のきっかけかもしれない。

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