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ビジネス歳時記 武士のおもてなし「鮎」第36話

鵜飼いが伝承する、信長を魅了した初夏の味

「みじか夜の 鵜川にのぼる かがり火の はやくすぎゆく 水無月の空」――水無月(みなづき)の異称を持つ6月は、国内各地の河川で鮎漁が解禁になり、初夏の使者、清流の女王とも呼ばれる鮎が食卓を賑わせる季節になります。

冒頭は、鎌倉初期の歌人として有名な藤原定家の和歌ですが、すでにこの頃、夜の川で船のへさきに篝火(かがりび)を掲げて鵜(う)を使って鮎を捕る鵜飼い※が行われていたことが分かります。新緑に覆われた昼に山々を眺めながら行う鮎釣りもさることながら、趣向を凝らした夜の鵜飼いは幻想的な催事として皇族や武将たちを魅了しました。

織田信長も、その一人。長良川の鵜飼いを有名にしたのは、信長が尾張から“水の国”、“野の国”といわれた美濃の岐阜城※に居城を移したころからとされています。「鳴かぬなら…」のホトトギスの俳句では冷徹なイメージの強い信長ですが、客人と鵜飼いを楽しむなどの接待上手だったといわれています。今回は、岐阜城で家族や客人たちと鮎の季節を楽しんだ、信長の水無月の話題を紹介します。

鮎は川で生まれて海で育ち、川に戻って一年足らずで生を終える年魚(ねんぎょ)。日本の夏を代表する川魚ですが、食用としてきた歴史は古く、平安時代には朝廷料理にも使われていました。川藻を餌にして育ち、爽やかな香りがすることから香魚と呼ばれて珍重され、格付けが上の「上魚」として扱われてきました。魚偏に占うという字を書く由縁は、神話時代に神功皇后※が鮎釣りで戦の勝敗を占ったことからといわれています。

鮎を捕るには友釣り、どぶ釣り、投網などさまざまな方法がありますが、鵜を使った鵜飼いも古代から行われてきました。平安時代末期、平治の乱で敗れた源頼朝が逃れてきたときには、美濃地方の鵜匠が道案内したという記録もあるそうです。

ところで、この鵜飼いによって捕られた鮎が珍重されてきたのは、歴史ある漁法とともに、市場には出回らない“ブランド鮎”だったからでした。それは、鵜が鮎を水中で捕らえると、鋭い嘴で一瞬のうちに締めて飲み込むために鮮度が高いのだとか。その嘴の跡が、献上品としてのブランドのマークともいわれています。

信長が長良川の南岸に位置する稲葉山(金華山)に岐阜城を構えたのが、永禄10年(1567)。この城には、山頂には信長たち家族が暮らす居城があり、そこから下った山麓には巨大な庭園と客人たちをもてなす迎賓館がありました。それは、長良川を含めて美濃の国を一望できるという“信長ワールド”のような施設でした。

もともと京都の歴史や芸術文化に憧れが強かった信長は、そのころすでに京都の桂川で行われていた鵜飼いを都の粋な遊びとして体験しており、自分の領地に流れる長良川でも行うことを思いついたのでしょう。一説では、当時は盛んに行っていた鷹狩りの鷹匠たちに禄を給付し、今度は鵜舟を与えて鵜飼いとして育てたともいわれています。

その後、鵜飼いは献上鮎を供給するものとして、地元の尾張藩はもとより江戸幕府、徳川家康などの特別な庇護を受け、長良川を筆頭に鮎川と呼ばれる各地の川で鵜飼いが行われてきました。

永禄11年(1568)の6月上旬、松明の篝火に照らされた鵜飼いでもてなされたのが武田信玄の使者としてやってきた秋山伯耆守(あきやまほうきのかみ)※。武田信玄の娘の松姫と、信長の息子の信忠との婚約の祝儀品を届けにきた彼を、信長は鵜飼いを見せて宴席を用意するだけではなく、信玄への土産として持ち帰らせる鮎を自ら選んで手渡すなどの心配りをしてもてなしました。

また翌年の永禄12年の6月には、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスたち一行を迎えて、2人の息子に茶の用意をさせたり、信長自ら晩餐の膳を運んで彼らの給仕にあたったそうです。その膳には、おそらく自慢の鮎の塩焼きや鮎鮨が並んだことでしょう。まさに、天下統一を目指していた信長が、輝き始めていた時期でした。

のちの時代に「おもしろうて やがてかなしき 鵜舟哉」の句を残したのは、松尾芭蕉。「ほーほー」と掛け声をかけながら賑やかに行われる鵜飼いが終わった後の静けさを、宴の後の寂しさに重ねて表現した名句として知られています。そして、天正10年(1582)6月、信長が本能寺の変で果てたのも、鵜飼いが始まる同じ水無月の季節でした。
 
【監修】
企画・構成 和文化ラボ
東京のグラフィックデザインオフィス 株式会社オーバル


※鵜飼い
ペリカンの仲間の鵜(川鵜、海鵜)を飼育して、魚を捕る漁法や漁師を指す。近世からこの漁師は鵜匠と呼ばれ、将軍などから庇護され献上品などを供給する役目を担う。明治以後、長良川のみが宮内省所属の皇室御料場となっている。

※岐阜城
岐阜市の金華山(稲葉山)にあった山城。建仁元年(1201)二階堂行政が築城、稲葉山城と名付けた。応永年間(1394 -1428)には、美濃国の守護土岐氏の重臣斎藤氏の居城となる。永祿10年(1567)織田信長が清洲城から移り、城下を岐阜と改めた。のち息子らの居城となり、関ケ原の戦いののち廃城となった。昭和31年(1956)天守閣が再建された。なお、岐阜市は2017年、信長の岐阜城入城以来450周年を迎え、戦国城下町として「信長公おもてなし」の息づく歴史と観光の街として、このほど第1号の日本遺産に認定された。
http://www.nobunaga-kyokan.jp/gifu.japan-heritage/
 
※神功皇后 
記紀(古事記、日本書紀)に伝えられる、仲哀天皇の皇后。仲哀天皇が戦死したのち、懐妊したまま朝鮮半島に遠征し、帰国後に応神天皇を出産したといわれる武運派の皇后。

※秋山伯耆守[1529-1575]
戦国―織豊時代の武将。秋山信友、晴近、虎繁の名を持つ。武田信玄・勝頼父子に仕える。信長とは、信玄が美濃の岩村城攻略の折、城主・遠山景任の未亡人(信長の叔母)を妻として城主となったという因縁がある。


参考資料
『江戸前魚食大全』(冨岡一成著 草思社)
『日本史4 キリシタン伝来のころ-ルイス・フロイス』
(柳谷武夫訳 平凡社 東洋文庫164)
『魚たちの風土記』(植条則夫著 毎日新聞社)
『魚の手帖』(望月賢二監修 小学館)
『岐阜県の歴史』(松田之利他著 山川出版社)
『信長の城』(千田嘉博著 岩波新書)
『信長とは何か』(小島道裕著 講談社選書)
・岐阜市観光コンベンション協会ホームページ http://www.gifucvb.or.jp/
・織田信長公居館跡発掘調査ホームページ http://www.nobunaga-kyokan.jp/
 


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