見出し画像

ビジネス歳時記 武士のおもてなし 「蠢く」第30話

虫を愛し、風流人との友情を広げた殿様

弥生3月は、6日の啓蟄(けいちつ)を過ぎるころから草木の生長も勢いを増し、虫も長い冬ごもりから目覚めて土中で蠢(うごめ)く季節。古来より日本人ほど虫を愛でる民族はいないといわれますが、身近な虫たちの図譜「虫豸帖(ちゅうちじょう)」を著して、 “虫の殿様”と呼ばれた伊勢(現在の三重県)の大名・増山正賢(ましやま まさたか)※もその一人でした。

「豸(ち)」とは、脚のない虫のことで、くねくね蠢く芋虫などのこと。なかでも、正賢は芋虫から蛹へと変化し、やがて華麗に羽ばたく蝶を好み、芸術性もある美しい図譜を描きました。加えて、口吻や脚の細かな様子を観察して描いた図譜の正確さは、現代の昆虫学者が見ても、蝶の性別や季節による変種までを識別できるレベルのものでした。

江戸時代後期は、“文人画家”などといわれるように、こうした高い教養を身につけた支配階級の武士が、美術や博物学などの分野で活躍した時代でした。そこには、殖産を目的に各藩に植物や生物、海産物などの調査を奨励していた幕府の施策も影響しています。標本にする保存技術や写真のない時代には、こうした図譜が重宝されたのです。

そして、ときには武士と町人という身分や格式を超えて、博物学などに興味のある同好の士が集まり、自由な交流を結ぶこともありました。今回は、正賢が書や絵画などを通して知り会った町人と互いに友情を育み、語らいもてなした物語を辿ります。
                       
正賢は「虫豸帖」のほか「百鳥図巻」や「草花写生図」なども著していますが、こうした自然科学的な観察力のある優れた図譜を描く技術や知識を教わった一人とされるのが木村蒹葭堂(きむら けんかどう)※です。浪速の知の巨人と称された蒹葭堂に出会ったのは、天明4年(1784)で正賢が28歳のころ。父の死去により長島藩主としての家督を継いで、幕府の要職として2度目の大坂城の警護をする城番を務めていたときでした。

蒹葭堂は大坂で酒造業を営む傍らさまざまな教養を身に着け、その経済力をもって2万巻を超す和漢の書籍や美術工芸品、珍品貴品、動植物の博物に至る品々の蒐集家としても有名な豪商でした。その彼に花鳥画や山水画の手ほどきを受けた正賢ですが、18歳も年上の蒹葭堂の話はまだ若い正賢には刺激的で楽しく、すぐに意気投合したのでしょう。天明7年(1787)の3月に正賢はお伊勢参りに蒹葭堂を誘い、旅を共にしています。正賢は、宿の手配や旅支度、参拝の段取りなどの旅程を細かく用意するなど心配りをしてもてなしました。

しかし、江戸幕府はこうした大坂商人たちの行動を快くは思っておりませんでした。「寛政の改革」(1787−1793)で松平定信※が節倹の政策を打ち出すと、蒹葭堂の酒造業が規定以上の生産をしているという難癖をつけて業務停止ばかりか、酒造に使う道具一式を没収。当時すでに隠居の身の蒹葭堂ですが、地元の有力者である町年寄という肩書きをもはく奪されることになってしまいました。

寛政2年(1790)3月に正式に裁きが下り、大坂の住まいも無くしてしまった彼ら家族に救いの手を差し伸べたのが正賢。長島藩領の川尻村に住まいを用意し、本草学の知識もあった蒹葭堂に薬草を栽培しながら暮らせるように準備しました。また家臣を派遣し、引っ越しから慣れぬ地で再出発する家族の世話に至るまでを手伝わせています。武士と町人という身分や格式を超えて、博物学を通しての友情が二人の間には育っていたのでした。

その正賢の気持ちを吐露することになったのは、蒹葭堂が67歳で亡くなったときに彼の墓碑に刻んだ「常ニ同床ニシテ臥シ、同机ニシテ語ル」という言葉。それは、同じ部屋で枕を並べて眠り、机を並べて語り合った友人を懐かしむ想い出を語ったものでした。

【監修】
企画・構成 和文化ラボ
東京のグラフィックデザインオフィス 株式会社オーバル


※増山正賢[1754- 1819]
江戸時代中・後期の伊勢・長島藩(現在の三重県桑名市)大名、画家。号は雪斎、巣丘山人など。安永5年(1776)第5代長島藩主に。藩校の文礼館を創立。卓越した書画を描き、詩文の創作や煎茶なども嗜む風流人として知られる。66歳で死去。生前に写生した虫たちの亡骸を「これわが友なり。これを糞壌に委すに忍びず」と小箱に保存しておいたものが見つかり、友人により「虫塚」として手厚く供養される。その虫塚は上野の寛永寺に現存する。
 
※木村蒹葭堂[1736 - 1802]
江戸時代後期の大坂の豪商・文化人。本名は坪井屋吉右衛門。北堀江(現大阪市西区)で酒造業を営むとともに、和漢の多くの書籍や地図、草木・金石・珠玉・古物などの蒐集家として知られる。また本草学者でもあり、詩文や絵画を嗜む文人と多芸多才な才能を示した。自らの書斎を『蒹葭堂』と名付け、通称は木村蒹葭堂の名で呼ばれており、その自宅は私設の博物館のようで、知識人や文化人が訪ねる文化サロンが形成されていた。和漢書の一部は国立公文書館に保管されている。
http://www.mus-his.city.osaka.jp/news/2002/kenkadou.html
 
※松平定信[1758- 1829]
江戸後期の幕府老中。寛政改革を推進した中心人物。8代将軍徳川吉宗の孫。白河藩主松平定邦の養子となり、田沼意次の悪政の後始末をするべく老中となり、財政の立て直しや文武の奨励、倹約を進める寛政の改革を実行した。


参考資料
『文人画家の譜─王維から鉄斎まで』(大槻幹郎著 ぺりかん社)
『江戸の動物画 近世美術と文化の考古学』
(今橋理子著 東京大学出版会)
『木村蒹葭堂のサロン』(中村真一郎著 新潮社)
『花鳥風月の日本史』(高橋千劔破著 黙出版)
『江戸大名の好奇心』(中江克己著 第三文明社)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?