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「大久保相模守忠隣公之𦾔趾」碑秘録

おおくぼ ただちか 

大久保 忠隣(おおくぼ ただちか)公碑


        大久保 忠隣(おおくぼ ただちか)
 

ブログ執筆の動機
 体力維持のために毎日午後、1時間ほどウォーキングしています。そのコース上の「上笠一丁目27周辺」(下記注1参照)に「大久保相模之守忠隣公𦾔趾」の石碑があります。ここを通るごとに、碑上の人物はいったい誰なのか、という疑問を持ちましたが、いつも疑問止まりで終わっていました。あるときその疑問に深入りする機会に恵まれたのです。
 石碑の裏に建碑年「昭和十五年」(1940)、建碑者「井上見尾」(いのうえ みを)となっています。しかし、実際の建碑は平成九年(1997)7月、建碑の責任者は地元の中村さんです。この齟齬はどこにあるのか、そして碑上の人は誰なのかを中村さんに尋ねました。説明を伺ううちに中村さんの大きな努力の蓄積があるのを知りました。中村さんは長年の歳月を費やして多数の貴重な資料を蒐集されてA4のクリアーファイルに綴じておられます。その資料の出版を勧めましたが、中村さんにはその計画はないとのことです。これでは折角の努力が無に帰してしまいます。惜しいことですので、お節介で、おこがましいことと自覚しながらも、中村さんのファイルを、秘められた記録に終わらせることなく、公にすることで中村さんの努力を顕彰させてもらおうと思い立ちました。
 碑の人物は家康の近習で小田原城主だった大久保忠隣公(タダチカ コウ)です。

大久保忠隣(ただちか)公の生涯
 ――生誕、生誕地
 大久保忠隣は戦国時代の最末期、武田信玄と上杉謙信が死闘を繰り広げた川中島の戦い(天文22年;1553年)の年に三河国(愛知県岡崎市)で生まれました。
 ――武功
 忠隣の武功は永禄11年(1568)遠江堀川城攻めに始まり、三河一向一揆(1563)、姉川の戦い(1570)、三方ヶ原の戦い(1572)、小牧・長久手の戦い(1584)、小田原征伐(1590)などで現れ、徳川家康の厚い信頼を獲得し、永禄6年 (1563)以後、家康に仕えています(ウィキ「大久保忠隣」)(注2)。
 ――家康の重臣
 天正10年(1582)、本能寺の変発生時、徳川家康は和泉国堺にあり、当地で織田信長の訃報を得、急遽三河へ帰国します。この避難行に、大久保忠隣は家康に付き従い、途中、有名な伊賀越えをしています。忠隣が家康の重臣であることを示す一事です。 
 文禄3年(1594)、忠隣は父の死で遺領・相模国小田原の領主となり、のちに初代藩主に就任します。
 ――大久保忠隣と本多正信とのライバル関係
 慶長5年(1600)関ケ原の戦いのとき、忠隣は、東軍の主力を率いる徳川秀忠に従い、中山道を進みました。途中信濃国で上田城に籠城する西軍の真田昌行に阻まれます。忠隣は攻撃を主張したのに対し、本多正信らは、軍の一部を残して関ケ原へと進言し、結果、本多正信らの案が採用されます。のちに大久保忠隣と本多正信とのライバル関係が成立していく一件です(中村6;ウィキ)(注3)。
 同慶長5年、徳川家康は大坂城西の丸に重臣6人、井伊直正、本多忠勝、榊原康正、平岩親吉、大久保忠隣、本多正信を招き、家康の子息3人中、だれを世嗣にするかを諮問します。本多正信が二男結城秀康を推したのに対し、大久保忠隣は三男徳川秀忠を推挙します。家康は数日後に「相模守(忠隣)の申すところ我意にかなえり」と(中村6)。正信と忠隣のライバル関係がより鮮明になる事態です(中村6、8)。
 慶長10年(1605)徳川秀忠が2代将軍(位1605-1623)に就き、家康は駿河城に退いて将軍の後見人になります(中村7)。
 慶長12年(1607)、本多正信は2代将軍・秀忠付の年寄(老中)に就任します(ウィキ「本多正信」)。片や、大久保忠隣の就任は3年後の慶長15年(1610)です(ウィキ;中村7)。大久保忠隣と本多正信・正純父子との「いさかいは作りごとと」とする見解がありますが(ウィキ)、いつの世にあっても主導権争い・権力争いは不可避でありましょう。
 ――大久保忠隣、冤罪で失脚へ
 慶長16年(1611)、大久保忠隣は嫡子忠常(32歳)を病気で失い、失意のなかで、幕政に集中できず、家康を始め他の老中たちの不興を買います(中村7;ウィキ)。
 慶長18年(1613)1月大久保忠隣の養女を、常陸牛久(ウシク)大名の山口重政が娶ります。この件は、幕府の許可なく行われたとして(私婚)、山口重政は改易になります(中村7、12、53;ウィキ)(注4)。
 同年12月6日、家康が鷹狩りに出て相模中原で休養中のこと、浪人・馬場八左衛門が「忠隣に謀叛の企てがあるとの訴状」をもたらします(中村8)。馬場八左衛門という人物は、家康の第5子武田万千代の家臣でありましたが、不都合のゆえに忠隣にお預けの身となっていたのです。そのような立場でありながら、馬場八左衛門は忠隣の扱いに不満を抱いたことが原因で小田原城追放となっていました。彼の「訴状」はそのときの意趣返しとみられています(中村8)。ちなみに『近江栗太郡志』には、上記馬場八左衛門の「訴状」につき、「正信父子之を證す」(本多正信父子がこれを証明した)とあります(『近江栗太郡志 第2巻』の「第4編 江戸時代志」302頁;中村15に写しあり)。
 ともあれ、家康は馬場八左衛門の「訴状」を重視し、本多正信をひと足先に江戸へ返します(中村8)。老中本多正信という人は、一度は家康に弓を引いたことがありますが、身の処し方が巧みで、家康との関係を「君臣の間相遇こと水魚の如し」にしています(中村8)。なお、本多正信と大久保忠隣との性格の相違を評して、忠隣は「謹厳実直な武功派」、正信は「文官派」とあります(中村8)。
 ――大久保忠隣、改易
 
同慶長18年(1613)12月、忠隣は幕府の命でキリシタン追放のために京へ出向き、翌19年(1614)1月17日京着(中村8)、18日から伴天連寺の破却、信徒の改宗強制、改宗拒否者の追放を行いますが(中村8,ウィキ「大久保忠隣」)、翌19日、一転改易になり(中村8、ウィキ「大久保忠隣」)、小田原城地没収、身柄は近江国井伊直孝にお預けとなります(中村8)。 
 この日(1月19日)、忠隣は京都の藤堂高虎邸で将棋を指していました。そこへ前触れもなく、突然、京都所司代板倉勝重が家康の上使として現れたことで、忠隣は全てを悟ります。忠隣、勝重にいわく、「流人の身になっては将棋も楽しめぬ。この一局が終わるまでお待ちいただきたい」。勝重は承知したと言われています(ウィキ)。忠隣は将棋を指し終え、「衣服を改めて上使と対面し、上意の趣を承った」と(中村9)。
 忠隣改易が知れると、京の市民は大慌てし、「洛中洛外、物騒がしかりしに、京童ども、忠隣罪蒙ると聞きて、すはや事の起こるぞとて資財雑具等ここかしこに持ち運び、以ての外に騒動す」と『藩翰譜』にあります(ウィキ;中村9)。
 1月21日、幕臣・安藤対馬守重信らが、大勢の家臣を率いて小田原に迫り城明け渡しを命じます(中村9)。 
 京にいた忠隣に、1月25日付で本多正信、土井利勝、安藤重信の3老加判の奉書が届き(中村8)、翌26日、安藤次右衛門正次を奉行とする軍勢が小田原城に到着、大破却を敢行します(中村9)。なお忠隣改易の理由については諸説あります(中村12)。
 ――大久保忠隣、近江国栗田郡中村郷上笠村で蟄居
 2月2日、忠隣は「わずか数人」の従者を伴って京を発ち(中村9、10)、「栗太郡中村郷」(「近江国栗田郡中村郷上笠村で。現・滋賀県草津市上笠一丁目525-出典中村9、59)に向かいます。当地で「5千石(50アール)の領地を拝領」し、「庄屋六郎左衛門家で蟄居」します(注5)。
 2月16日、忠隣は配所から旧領小田原城内にあった若宮八幡宮に無実の願文を奉納しています(中村11)。
 ――大久保忠隣の冤罪晴らし、家康に通ぜず
 3月2日、忠隣は天台宗大僧正・南光坊天海を通じて弁明書を家康に提出しましたが、家康の反応なしです。その後も、家康の老中・成瀬正成や彦根藩主・井伊直孝らが忠隣の冤罪晴らしを試みましたが、家康の許しは出ませんでした(中村11;ウィキ)。
 ――大久保忠隣、近江石ケ崎竜譚寺へ
 忠隣は六郎左衛門屋敷で三年間過ごしたあと、井伊直孝の厚意で佐和山(彦根市)の西隣、近江石ケ崎竜譚寺(龍譚寺)(リョウタンジ)に迎えられ、寺域に小庵を建てて幽居します(中村10、11、60、65)。
 ――家康没、大久保忠隣出家、没
 元和2年(1616)、忠隣は大御所家康逝去の報に接すると、比叡山常光院と、大久保家の菩提寺・京都本禅寺の住職を招請し、65歳で出家、道白と号し、寛永5年(1628)死去、享年75(中村11、ウィキ)。
 京都本禅寺の墓石(左奥から七郎右衛門忠世、相模之守忠隣、加賀守忠常(忠隣の長子)、加賀守忠職(タダモト)(忠常の長子)、忠職室、そのほか大久保氏一族の墓)(中村33、59)(中村さん撮影)

京都本禅寺の墓石

  ――大久保忠隣公と上笠人
 草津市上笠の人たちは忠隣の配流邸跡(現、滋賀県草津市上笠町525;現在は畑)を今でも「お屋敷」と呼んでいます。土地の古老田中光蔵氏の話によれば、殿様(忠隣)の住まわれた庄屋さんの屋敷は千五百坪程あって、屋敷のまわりに十尺程の掘りがあったそうです。屋敷から東へ向かって八尺道(現在でもほとんど同じ幅で舗装されている)があり、この道が殿様の通る道ときまっていましたから、殿様のでかけられる時には庄屋前広場(約百三十坪)に村民が土下座して見送り、忠隣公を慕うとともに、厚くもてなし、無聊(ブリョウ)を慰めていました(中村10、60)。
 本資料の蒐集者中村さんは忠隣公についてこう記しています。「無実の罪が晴れることを願って」あのような「願文を奉納し、其の日が一日も早くくることを祈った忠隣の胸中を察するに余りある。徳川家譜代の巧臣であって権勢並ぶ者がなかった人が、こうした心情になったことを思う時、哀れを感じるのは私だけ」だろうかと(中村11)。中村さんも忠隣公を慕い、敬愛する純朴な上笠人(カミガサビト)の一人です。
 ――庄屋・井上六郎左衛門家、その後
 その後、庄屋井上六郎左衛門の家は、子孫分かれて二家となり、本家を金左衛門、分家を伊兵衛と称していました。文化十年(1813)大坂城代であった小田原城主・加賀守忠真(タダザネ)(忠隣の子孫)は、先祖の忠隣が遠く近江へ配流された時に、上笠村の庄屋井上家が忠隣のために尽くした功労を聞いて非常に喜び、忠隣の二百回忌(文政十年、1827年)を機に、この年より毎年小田原米三俵を本家井上金左衛門宅へ、二俵を分家井伊兵衛宅へそれぞれ贈って先祖の恩に報いています。このことは、明治維新後もなお続き、昭和初年に至るまで大久保家より毎年金一封が贈られていました(中村10)。  
 その後井上家は、本家の金左衛門さんの直系子孫・井上見尾(みを)氏をもって絶えました。みを氏の従姉妹が四国へ嫁がれましたが、この方もすでに亡くなられ、井上家に伝わる文書は、この夫人の義妹、薦田弘助夫人に預けられ、現在、同家に保管されています(中村10)。
 ――大久保忠隣の子どもたち
 忠隣の長男忠常は既述のように病没しています。二男忠総(タダフサ)は外祖父石川日向守家成の養子となっていましたので無処罰ですみ、その後、大垣藩5万石の城主に取り立てられました。三男右京亮忠勝(教隆 ノリタカ)と、四男主膳正忠長(幸信)は川越に配流されましたが、三男右京亮は、元和元年(1615)津軽藩へ、四男主膳正忠長は南部藩へそれぞれ配所替えとなり、寛永5年(1628)父忠隣が没すると、共に配流を解かれて再び登用されました。五男内紀なりたかは外祖父石川日向守家成の養子となっていましたから配流を免れて日向守の隠居料5千石をそのまま拝領しましたが、大坂夏の陣で討死しています(中村12)。  
 ――大久保家、72年後に復権
 忠隣改易(1614)から72年後の貞享3年(1686)、子孫大久保忠朝(タダトモ)が小田原城主に返り咲き、10代続いています(中村60;中村70に「小田原藩主大久保氏略系図」あり)。この大久保家の復権で、忠隣の墓地は龍譚寺にありましたが小田原に移転(現存)され、分骨が京都の寺にあります(中村65)。
「大久保相模之守忠隣公𦾔趾」の建設について
 石碑の裏に建設年「昭和十五年」(1940)、建設者「井上見尾」(いのうえ みを)となっています。ただし「昭和十五年」が見尾さんの希望年かどうかは不明です(中村13)。
 井上見尾さんは庄屋井上六郎左衛門の子孫で、守山市(旧野洲町)欲賀(ホシカ)の寺へ嫁がれましたが、子どもに恵まれることなく、昭和12年(1937)2月28日(享年77)物故されました。見尾さんの墓地は上笠の墓苑にあります(中村60、80)。
 石碑の実際の建設は平成九年(1997)7月、建設責任者は地元の中村さんです。井上見尾さん健在の時、見尾さんご自身から建設の依頼がありましたが、事情があって実現が遅れました(中村80)。
 中村さんの記録と談話によれば、建設地は忠隣公の「屋敷跡」(中村13)・「蟄居されていた跡地」(中村60)で、現在は中村さんの所有地です。碑の建設にあたり、相談者となった人は本覚寺住職尊順氏と田中忠幸氏の家族で、碑の字体は井上見尾氏の掛け軸から転載されました(中村13)。建設費用につきましては、中村さんの親族・知人が協力されましたが、多くは中村さんの出費です。
 石碑の存在は私たちを近世の世界に誘ってくれます(注6)。大久保忠隣という人は家康の近習で、小田原城主になり、2代将軍徳川秀忠の老中にまで上り詰めましたが、身の処し方の不器用さもあって、ライバルから冤罪により権力の座から追い落され、不遇な三年間を上笠の地で過ごしたこと、そして当地で村人によって丁重に遇され、親しまれ、没後も敬愛の念をもって語り継がれ、逝去(1628年)から370年後の1997年に、村人によって碑でもって人柄を追憶されたということを。

  中村さんのクリアーファイル

中村さんのクリアーファイル


注1.
 出典は「リーフかさぬい」(笠縫まちづくりセンター発行、第157号)。
注2. ウィキ「大久保忠隣」は、ウィキペディア「大久保忠隣」の略で、以後は単に「ウィキ」とのみ略記されます。
注3.(中村6、ウィキ)「中村6」は中村さんのクリアーファイルの6頁を意味し、「ウィキ」はウィキペディア「大久保忠隣」の略です。
注4. 「改易」(カイエキ)は「江戸時代においては、武士に対して行われた士籍を剥奪する刑罰。士分以上の者の社会的地位を落とす身分刑であるが、禄や拝領した家屋敷を没収されることから、財産刑でもあるとする見解もある。また大名の所領を没収、減封、転封することを改易と呼ぶこともある。」(ウィキペディア「改易」)
注5. 「蟄居」(チッキョ)とは「武士に課された刑罰で、閉門のうえ一室に謹慎すること」を意味します(『草津市史』第二巻、138頁)。
注6. 「 近世は、江戸幕府の創立 (1603 年)から明治維新による東京遷都(1869 年)まで、あるいは関ヶ原の戦い(1600 年)から大政奉還 (1867 年)に至る間をさす。 」(立正大学日本史< https://www.ris.ac.jp/library/learn/cb6q790000000704-att/nihonshi.pdf >)

追記 本ブログの執筆者寺内は英文学とキリスト教の研究者ではありますが、日本史家ではありません。40年ほど前に当地に引っ越してきまして、付近をウォーキングしていますうちに、この地の歴史的背景に深く魅せられまして関心の向くままにブログを執筆しています。一生懸命に書いていますが、記事内容に誤りや、明らかな不足等がございましたら修正させてもらいますのでご指摘方よろしくお願い申し上げます。

Many thanks for your support! I will keep writing my interest. Good luck! わたし英語の勉強もつづけています。It will take a long time to learn English.