中世の残照を求めて草津下笠へ(滋賀県)

中世の残照を求めて草津下笠へ(滋賀県)

2024年03月17日 | 日記
中世の残照を求めて草津下笠へ(滋賀県)

 本稿は初め「goo blog」で投稿していましたが、「goo blog」は字数制限があり、3部「その1」「その2」「その3」に分けないと投稿不能でした。その後「note」というSNSを知り、拙稿にはこれの方が使い勝手が良いと分かりました。
 「goo blog」では、閲覧数が 94 に達していましたが、2024年6月25日付で「note」で投稿します。よろしくお願いします。

見出しの地図は「城中」の位置を示すものです

 小幡川は「おばた」と呼んで「おばたかわ」とはいわなかった。夷川は「えべすがわ」と呼んでいたが正しくは「えびすがわ」でしょう。現在、「えべすがわ」は道路・用水路となり一部分しか判りません(以上の情報は、城中・小幡川・夷川の位置を含め、下笠氏から得ました。記して謝意を表します。川端59「城域」も参照しました)       
【画像提供】OpenStreetMap http://www.openstreetmap ...

 地図上でマウスカーソルをクリックすると拡大図が得られます。

本稿の論述内容
 1, 執筆の動機
 2.市街化
 3.下笠
 4. 戦国時代の室町幕府足利将軍一覧(8代から15代まで)
 5.六角氏(佐々木六角氏)(12代から16代まで)
 6.下笠、下笠氏来歴、下笠氏7代(8代?)、市場・寺内・北出・・・、下笠の3寺院
 7.ウォーキングを終えて
 8.地図4点
 9.注
10、参照文献
11.付記

 執筆の動機
 本 note は中世の草津・下笠にかかわる報告です。下笠は、中世の一時期、商工業が栄え、築城し、武士団を抱えるほど活気のある村でした。その記録は、卓越した郷土史家・川端善二氏が『ふるさと笠縫』で見事に描写しています。本ブログはこの高著に導かれて書いたものです。目的は二つあります。一つは、下笠馬場町をウオーキングしているとき、「お城はどこにあったのですか」「お城?知りませんなぁ」の連発でした。無理もありません。下笠城址は地図にもありませんし、お城のあった「城中」という地域がどこを指すのかを知る明確な術もありません。当時からすでに500年ほどが経過し、人々はもはや城郭時代を想起することが無くなったということでしょう。郷土史に関心を抱く者には残念に思えるのです。ゆえに、下笠の輝かしい歴史をブログで記し、広く人々の興味を喚起しよう、と。もう一つの目的は、そのとき以来の集落名と思われる「城中(シロナカ)、市場(イチバ)、寺内(ジナイ)、小屋場・・・」といった歴史的小字名が、昭和30年の住居表示変更後、使用されなくなり、「大字下笠~小字~」が、現在では「下笠町~番地」となっているのです(注1.―「注1」は本ブログの掉尾に載せた「注」を参照せよの意;以下同)。間もなくこれらの由緒ある名称は忘却されていくことでしょう。人間の歴史的な営みや、歴史的建造物、遺跡、遺構」等に関心を寄せる筆者には何かしら喪失感を覚えます。だからSNSで発信しよいう、と。
市街化
 草津市はこの半世紀間に急激に市街化が進みました。わたしは40年ほど前(1984年頃)に当市へ引っ越してきまして、昭文社の地図「草津市 守山市 栗東・野洲・中主町」(昭和60年[1985年]7月)を購入しました。それを開きますと、草津駅西口に隣接して綾羽工業と綾羽工業社宅が描かれています。同社の南側には会社と並行する形で道路があり、その道路は会社の西端で途切れています。これがいまでは琵琶湖にまで延長され、「びわこ通り」という名で駅西側のメイン道路になっています。この道路に沿う形で、農地であった地域が、商店や新興住宅に取って代わられ、綾羽工業のあと地には大スーパーなどが進出していますし、1994年(平成6年)にJR南草津駅の新設と、立命館大学びわこ・くさつキャンパスの開設があり、駅周辺は高層マンションの林立状態で、街の様相は一変しました。
 草津駅西口を出ますと、西大路町で、ここからびわこ通りを西進すると野村町、ついで上笠町(かみがさちょう)、下笠町(しもがさちょう)となります。市街化の波は上笠町に及んでいますが、下笠町となると、びわこ道路沿いと弾正池(だんじょういけ)あとの弾正公園周辺は別として、まだ“若干”という程度でしょう。

下笠
1.老杉神社
 2024年3月のある温かい日、日課のウォーキングで下笠町へ出かけました。この日は普段とは異なり、郷土史家・川端善二氏の著書『ふるさと笠縫』に導かれてです。
 町の北端に老杉(おいすぎ)神社があります。この神社は奈良時代(701-760年頃)の704年の創建です。その後、平安時代(842-1191頃)を経て、鎌倉時代(1192-1336頃)の「安貞元年(1227年)、鎌倉幕府に仕えていた佐々木信綱が承久の変」の恩賞で「栗太郡北部(笠縫全体を含む)」を領しています(川端8―「川端8」は川端善二著『ふるさと笠縫』8頁の意;以下同)。その後どのような変遷をたどったのか分かりませんが、当地は「文永年間」(1264-1275)に「奈良興福寺領」となり(川端8)、「笠庄(かさのしょう)」という「興福寺の荘園」になっています(注2)。
 こんにち老杉神社周辺の人たちは、当地を「下笠馬場町(ばんばちょう)」と呼び、下笠城の馬場のあったところです。
2.下笠城主と戦国時代
 下笠地区における下笠氏の出現は室町時代の1450年代に遡ります。その直後、京都で応仁の乱(1467-1477)が勃発し、室町幕府は戦国時代に入ります。そして1568年、下笠城の最後の城主・下笠三郎左衛門弼實(すけざね?)が青地氏との戦いで敗死し、城は消滅しました。この年、すなわち永禄11年(1568)9月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を開始し、戦国時代は終焉します(注3)。つまり下笠氏の活動期の多くは戦国時代に属したのです。その間に、室町幕府は8人の将軍が登場しています。その名を挙げておきましょう。

戦国時代の室町幕府足利将軍一覧(8代から15代まで)
(出典:ウィキペディア)
8代将軍足利義政 
 文安6年4月29日-文明5年12月19日(1449年5月21日-1474年1月7日)。治世中に応仁の乱(1467-1477)が勃発し戦国時代に突入。室町幕府の武将は西軍(大将・山名宗全)と東軍(大将・細川勝元)に分かれて覇を競う。在位24年8か月。
9代将軍足利義尚(よしひさ) 
 文明5年12月19日-長享3年3月26日(1474年1月7日-1489年4月26日)在位15年4か月。
 空 位    
 長享3年3月26日-延徳2年7月4日(1489年4月26日-1490年7月21日)期1年3か月。
10代将軍足利義材(よしき) 
 のちの義稙(よしたね)。延徳2年7月5日-明応2年6月29日(1490年7月22日-1493年8月11日)在位3年。
 空 位   
 明応2年6月30日-明応3年12月26日(1493年8月12日-1495年1月22日)期間:1年5か月。
11代将軍足利義澄(よしずみ) 
 明応3年12月27日-永正5年4月16日(1495年1月23日-1508年5月15日)在位13年4か月。
10代(再)    
 10代義材と同人物。永正5年7 月1日-大永元年12月25日(1508年7月28日-1522年1月22日)。義材は、将軍職を追われ逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)と、将軍職復帰後の永正10年(1513年)に義稙(よしたね)とそれぞれ改名。在位13年6か月。
12代将軍足利義晴(よしはる) 
 大永元年12月25日-天文15年12月20日(1522年1月22日-1547年1月11日)在位25年。
13代将軍足利義輝(よしてる) 
 天文15年12月20日-永禄8年5月19日(1547年1月11日-1565年6月17日)在位18年5か月。
 空 位    
 永禄8年5月20日-永禄11年2月7日(1565年6月18日-1568年3月5日)期間:2年9か月。
14代将軍足利義栄(よしひで) 
 永禄11年2月8日-同年9月末(1568年3月6日-同年10月?)在位8か月。  永禄11年(1568)9月、織田信長、足利義昭を奉じて上洛する。この時期が戦国時代終焉とみられています。
15代将軍足利義昭(よしあき) 
  永禄11年10月18日-天正16年1月13日(1568年11月7日-1588年2月9日)。1568年10月、10月18日、義昭は朝廷から将軍宣下を受けて、室町幕府の第15代将軍に就任。1573年、織田信長、将軍足利義昭を京より追放、室町幕府滅亡。在位19年3か月。

六角氏(佐々木六角氏)

 下笠氏は近江守護・六角氏(佐々木六角氏)の被官(武家の家臣)でした。ゆえに、六角氏に逆らえないわけですが、特例があります。下笠美濃守實親(下笠左衛門尉實親)は、9代将軍・足利義尚(よしひさ)の鈎(まがり)の陣では、後述のように、上部権力の幕府側に従っています。
 以下に六角氏の12代から16代までの氏名と事績などを挙げておきます(出典「ウィキペディア」)。
1.12代六角高頼(たかより)(六角亀寿丸)
  ――幕府と戦う 
 六角高頼は康正(こうしょう)2年・1456年10月2日、父久頼の憤死(自害とも)によって家督継承する。だが長禄(ちょうろく)2年(1458)6月従兄・六角政堯(まさたか)(佐々木政堯、佐々木四郎とも)が六角氏相続を認められ、その地位を追われる。長禄4年(1460年)7月、政堯が家臣団の伊庭満隆の子を殺害したのを機に室町幕府は政堯を追放して亀寿丸(亀寿とも)を当主に復帰させる(注4)。
 六角氏は寛正(かんしょう)元年(1460)に内紛を起こし、他の多くの有力守護家と同様、応仁の乱(1467-1477)によって激しい同族争いに突入する。幕府は六角氏を始め、西軍(山名方)に属した守護大名をいっせいに罷免し守護職を剥奪して、それぞれ別の守護を補佐しました(1草津史586-87)
 六角高頼は文明(ぶんめい)10年(1478年7月、文明は長享(ちょうきょう)と改元)、幕府から近江守護に補任されたが、東軍に属した江北の守護京極持清(もちきよ)との対抗上、権力強化のために公家・寺社勢力の統御を狙い、公家領・寺社領などの領地を横領して配下の国人(くにびと、こくじん、くにゅうど゙とも読み、「その国の国民、住民」の意―ウィキ参照)衆に分け与えました。これが、9代将軍・足利義尚らの反発を引き出すことになります。
  ――幕府の第一次六角高頼征伐・・・失敗
 幕府は長享元年(1487)、六角政堯を再び近江守護に補任するとともに、京極持清(もちきよ)と共同して六角「高頼討伐を決定」したのを機に(1草津史597)、湖国の山野は全面的に戦乱に巻き込まれます(1草津史586-87―「1草津史」はブログ掉尾の「参照文献表」を参照せよ)。
 長享元年9月、室町幕府9代将軍・足利義尚がみずから兵力391騎8000人を率いて守護大名・佐々木六角高頼討伐に乗り出します(「鈎の陣」(まがりのじん)< https://www.kaho.biz/main/magali.html >)。同9月、六角方の軍兵は、六角高頼の江岸(湖岸)守備の命で、山田・下笠付近に充満していたと考えられます(1草津史5)。他方、幕府軍は9月20日、瀬田・大萱・志那等の港あるいは集落を焼き払っていますが(1草津史598-99)、諸記録には、この時、両軍の間で戦端が開かれたとする記述がないことから高頼はすでに湖岸守備の軍勢を甲賀方面へ撤退させていたと推測されます(1草津史599)。以後24日にかけて幕府軍は湖東の諸城を攻め始めている(1草津史 599)。これに対し、六角高頼は観音寺城に、前守護代伊庭貞隆は近江八幡の金剛寺城に、その被官達は八幡(山)城に、前蒲生郡代九里(くのり)は近江八幡の岡山城にそれぞれ立てこもっていたがほとんど抵抗なく、23、24日に撤退を始めている(1草津史599)。将軍・足利義尚(よしひさ)の率いる幕府軍の大部分は、六角高頼が三雲城まで撤退したとの報で、湖東の平野部はほぼ幕府側の勢力下に入ったとみなし、長享元年(1487)10月4日、下坂本より兵船で志那、山田の港に渡り、草津を経て近江鈎(まがり)の安養寺に入ったものと考えられる(1草津史600)。
 長享3年(1489)3月、将軍義尚は24歳(25歳)で鈎の陣(まがりのじん)で病死します(1草津史606;ウィキ「足利義尚」)。将軍自ら出陣したにもかかわらず六角氏を討てず、室町幕府の弱体化を天下にさらす結果となりました(注5)
 足利義尚は鈎の陣で没したため、親征(「君主が、自ら軍の指揮を執り戦争に出ること」)は中止になり、六角高頼は10代将軍・足利義材(のちの義尹、義稙)に赦免され、近江守護に復帰しますが、国人衆が押領した所領を返還しなかったため延徳3年(1491)に義材による再度の追討を受ける羽目になります。六角高頼は再び領地を捨てて甲賀山中に逃亡します。
  ――青地氏と下笠氏、六角氏に従わず将軍に従う
 『草津市史』は、青地氏は佐々木六角氏の一族であるから、第一次六角征伐で幕府軍にではなく、六角高頼側に与したと考えられるが、詳細は不明と記す一方(1草津史610-11)、『栗太郡志』は「此時[長享元年9月―筆者注]」、「青地氏及び其部下は將軍の軍に從ひしに反し」、「栗太武士にして佐々木氏の軍に從ふもの二十七家あり」(2栗太488⁻89)。青地氏は六角氏の一族でありながら、将軍側につき、同族の六角氏と戦ったのです(注6)。他方、下笠美濃守實親(下笠左衛門尉實親)も幕府側にあって、六角高頼の将兵「一色兵助」を討ち取り、その「報奨」として9代「将軍・義尚(よしひさ)」から「下笠五ケ村を知行」している(注7)。時まさに戦国時代、「應仁文明の亂以後社会の秩序亂れ殺伐の氣、不倫の風、上下を[一字不明―筆者注]く、骨肉の親干戈(かんか)(武器の意)を執(と)りて戰ひ、同族の間併呑(へいどん)(他者を自分の勢力下に入れること)を欲す」(1栗太460-61)。   
  ――幕府の第二次六角高頼征伐・・・失敗
 近江守護六角高頼は赦免と引き換えに押領した近江の寺社本所領を旧主に還付する条件であったが、高頼の被官達は甲賀山中に辛苦の潜伏中、高頼から厚い恩賞を約されていたことから、帰京した幕府軍と入れかわりに湖東から近江全土に進出するや、たちまち諸荘園を蚕食して手離そうとはしなかった(1草津史606)。
 延徳3年(1491)、10代将軍足利義材(よしき)は第二次六角征伐に乗り出します。だが細川政元は、第9代将軍義尚時代同様、将軍に非協力的で、出兵に猛反対さえした(1草津史606-07)。延徳3年8月(1491)、下笠町の老杉神社では将軍義材の出兵直後、当所ことごとく兵火にさらされている(1草津史608)。明応元年(1492)3月幕府軍が神崎郡の簗瀬(やなせ)で大勝を博したが、六角軍は容易に引き上げず、湖東の諸所に兵力を温存していた(1草津史607)。
  ――明応元年、六角高頼、幕府に忠誠
 その後六角氏は幕府への忠誠に転じたことから明応元年(1492)12月以前(10代将軍足利義材時代)に、幕府から近江守護職を還付され、以後目立った戦乱はなく、六角氏は順調に守護国制を展開させていく(1草津史609)。この趨勢のなかで、下笠實親は「六角方の十一備の一家」、つまり「六角方の十一」部隊の一隊になっています(注8)。
 明応元年12月下旬、芦浦の観音寺に六角氏の有力被官九里(くのり)の手兵が乱入し、財物の略奪を働いている。観音寺が幕府軍の陣所になっていたことへの報復とみられています(1草津史609)。結局、第二次六角征伐も、高頼を伊勢に逃がしただけで、同年12月幕府軍は引き揚げざるを得なかった(1草津史609)。
 明応2年(1493)春、10代将軍「義材は細川政元の陰謀」で追われ、「世はいよいよ真の意味での戦国時代に突入」する(1草津史609)
  ――明応五年青地氏、六角高頼の臣下
 明応5年(1496)美濃守護土岐(とき)家で、嫡男・土岐政房と四男元頼の間で後継争いがおこり、六角高頼は、同族で家臣の青地氏に命じて美濃に出兵させ、四男元頼側に立たせている。元頼は7月の戦いで敗れて近江に逃れ、六角高頼に庇護を求めています。元頼は再起を期して再び美濃へ出兵したとき、六角高頼は青地(頼賢?)、伊庭、九里、三雲、種村、高野瀬、下笠の各氏に援護させたが敗れ、帰国途中、土岐政房支持の江北の京極氏(誰かは不明)に攻められ500余人の死者を出す大打撃を受けている(1草津史611)。
  ――青地城、1502年の落城
 神崎郡能登川の伊庭城城主・伊庭氏は平安時代末期から鎌倉時代にかけての、近江守護佐々木信綱以来と伝えられる佐々木氏の重臣です。だが文亀二年(1502)10月、伊庭城城主・伊庭貞隆は主家六角高頼と戦い、一度は敗れるが、12月再活動を始め、12月18日青地城を落城させる。伊庭貞隆の反乱は六角氏の家臣を二分し、六角氏一族の青地城主・青地頼賢は伊庭氏の誘いに応じなかったのである(1草津史612-13)。伊庭勢はさらに北上し、25日に蒲生郡馬淵城を、ついで野洲郡永原城を陥落させ、六角高頼の逃げ込んだ日野城に迫ったが、文亀三年六月幕府の介入で和議が成立し、伊庭貞隆は守護代に復帰している(1草津史613)。永正11年2月以後数年間、伊庭軍は江北の浅井氏と組んで六角に抵抗したが、六角氏綱(下記)に敗れ、江北に敗走する(1草津史614)。
 青地城陥落後の永正四年(1507)6月、細川澄元(すみもと)が京都を逃れて一時青地城に身を寄せている。青地城の修復は50年後でさえ不十分だったようです(『1草津史614)。
2.第13代六角氏綱(うじつな)-幕府に忠誠
 1506年、父・六角高頼の隠居で嫡男・氏綱が家督を継ぐ。1511年以後六角氏は一貫して室町幕府10代将軍足利義稙(よしたね)系の将軍に忠誠を誓うことになる(ウィキ「六角氏綱」)。1518年7月9日、氏綱は細川氏との戦い(1516年)で受けた戦傷が原因で父に先立って27歳で早世。
3.14代六角定頼(さだより)-幕府に忠誠
 永正15年(1518)、兄・氏綱死去を受け、定頼が還俗して家督を相続し、天文21年(1552年)まで34年間活動しています。ちなみに、六角定頼は、下笠氏第3代・信濃守頼実(川端61)に、片諱(へんき)(偏諱(へんき)と同。貴人の一字の意)「頼」を与えています(2栗太184)。定頼氏の下笠氏への信頼・期待が大きかったことを暗示するものでしょう。
  ――下笠信濃守頼実と家臣・小寺兵庫介はどの戦いで「討死」したのか 
 六角定頼は治世中に4度の戦いに関与しています。その戦いを記しましょう。1.定頼は細川政賢(まさかた)(永正8年1511年没―ウィキ)を破っている。ただし、定頼がどういう戦いで細川政賢を破ったかについての言及はない。2.定頼は両細川の乱(永正6年1509-天文元年1532)を終結に導いている(ウィキ)。3.摂津での江口(えぐち)の戦い(江口合戦-村井43-4)(天文18年・1549年6月)で三好長慶と戦っている。4.北近江の領主・浅井家に侵攻しているが、定頼晩年時代のことであり、定頼の嫡男・義賢(承禎)の戦いでもある。ウィキペディアで言及されている定頼の戦いは以上であるが、別の史料にもう1つ、定頼時代の戦いが言及されている。天文14年(1545)5月のことで江州勢が宇治へ出兵している。「三好氏と対立した細川晴元の援軍として、江州勢が宇治へ出兵しているが、大きな戦闘にはつながらなかったようである。」(村井42)
 川端61に、下笠信濃守頼実は「天文15年4月討死」、「家臣・小寺九郎兵衛討死」、「家臣・小寺兵庫介討死」とあります。だが、上述のように、天文15年(1546)に3人の大人物が「討死」するような合戦の記録はないのです。唯一、彼らの没年に近い合戦(小競り合い)をいえば、「天文14年(1545)5月」の「江州勢」の「宇治へ出兵」でありましょう。もしこれが該当するとすれば、川端氏の依拠する「下笠氏系図」筆記者の記憶・記録違いかもしれません。系図の信頼性が問われる事態で、系図はいつ誰が書いたのかという疑問が湧いてきます。
 ちなみに、彼らの没年の「天文15年」は、織田信長13歳であり、武人としては無名です。彼の初陣は天文16年(1547)で、桶狭間の戦いは永禄3年(1560)、上洛は永禄11年(1568)です
4.15代六角義賢(承禎)
 義賢は天文2年(1533年)4月、観音寺城で元服し、12代将軍・足利義晴から偏諱(へんき;;貴人の一字)・「義」を受け、義賢(よしかた)と名乗っています。1552年、父の死去で家督を継ぎ、弘治3年(1557)、嫡男・義治に家督を譲って隠居し、剃髪して承禎(じょうてい)と号したが、実権は永禄11年(1568年)まで握り続けていた。近江国の守護で観音寺城主ですが、甲賀郡を含む江国の守護でもあり、更に他国の伊賀国の4郡の内の3郡の間接統治も行っています。
  ――幕府に忠誠だが、その後・・・
 隠居後の永禄8年(1565)5月、13代将軍・足利義輝(よしてる)が三好三人衆らに殺害されると(永禄の変)、義輝の弟・覚慶(のち15代将軍・足利義昭)は近江の和田惟政(これまさ)(幕府の重臣)の下に逃れる。当初、承禎は覚慶の上洛に協力する姿勢を見せて野洲郡矢島に迎え入れたりしているが、三好三人衆の説得に応じて義昭(覚慶)を攻める方針に転じたため、義昭は朝倉義景の下へ逃れた
5.16代六角義治
  ――幕府に忠誠だが、その後・・・
 六角義治(よしはる;幼名義弼・よしすけ)は、その名の一字「義」を、13代将軍・足利義輝の片諱(へんき;偏諱・「へんき」と同じ;貴人の一字の意)「義」を与えられている(ウィキ)。弘治3年(1557)、父・義賢(承禎)の隠居により家督相続したが、実権は依然として承禎が握っており、永禄3年(1560)、離反した浅井氏に対抗するため、美濃斎藤氏との縁組を進めようとして父の怒りを買い、飯高山へ一時逼塞している(ウィキ)。
 治世中の永禄8年(1565)、上述のように、隠居中の父・六角承禎が、殺害された13代将軍・足利義輝(よしてる)の弟・覚慶(のち15代将軍・足利義昭)を敵視している。 
  ――信長、六角氏の居城・観音寺城占領;六角氏滅亡へ
 六角氏は、永禄11年(1568)9月、足利義昭を奉じて上洛する織田信長軍に居城・観音寺城を占領され、甲賀山中へ敗走しています。これを機に六角氏の家臣団は分列と抗争を繰り返し自滅していきます(1草津史636)。その流れの中で「多くの佐々木六角家被官」は「宗家から離れ」ており、その一人、青地城主・青地駿河守茂綱は、永禄11年織田信長が佐々木氏(六角氏)を「敗りし時、早く信長に從」う(1栗太623)。他方、「下笠氏は駒井氏同様」、宗家・六角氏に忠誠を尽くしていました(川端60-61頁)。

下笠
 ウオーキングを続けましょう。老杉神社の参道を真っ直ぐ進むと一の鳥居があり、それを通り抜けて直進するとびわこ通りです。町外れに交番があり、東隣は下笠会館です。この会館を含む北側にお城があり、その辺を「城中(しろなか)」と呼んでいます。といっても標識がありませんので、インターネットで調べないと分かりません。町の古老に伺いますと、「城中」は地名であったとか、なかったとか、といった答えが返ってきましたが、『古地図に描かれた草津』(発行・草津市、編集・草津市立街道文化情報センター、平成6年、68頁)を開きますと、「小字『城中』」とあり、「ここが中世、佐々木氏の臣であった下笠氏の居城下笠城の中心であった可能性がある」と。
1.下笠氏来歴
 清和天皇→頼房(宇野氏を名乗る)→宇野源太郎守治→下笠美濃守實親
 下笠氏は「清和源氏の流れをくみ、元は宇野氏」で、「清和天皇から6代目の頼房(従五位下肥後守)が大和国宇野庄を賜り、土地の名をとって宇野氏を名乗り宇野氏の祖となる。頼房から9代目・守治[宇野源太郎守治(もりはる)―筆者注]が承久ノ変(承久3年・1221年)の功により」、鎌倉幕府から「近江国粟津大石関ノ津を賜」り、「瀬田川の東岸、笹間ケ岳の西麓」の「源太郎山と呼ばれる丘陵」に「関津(せきのつ)城」(関ノ津城;別名「宇野城」)を築きました(注9)。宇野源太郎守治から「10代目」にあたる人物が「実親」(下笠美濃守實親または下笠左衛門尉實親)で、彼は「足利将軍・義尚」の「鈎ノ陣」で「中功をたて、下笠に所領を賜り土地の名を取って下笠氏を名乗る。」故に、彼が「下笠氏の祖」、「初代」です(注10)。
2.下笠氏
 下笠村で下笠氏の名前が最初に現れるのは室町時代(1336-1573)の1450年代です。以下に順次歴史上の人物を記します。
① 下笠美濃守源高賀
「老杉神社本殿」の「棟木」に「享徳元年(1452年)」・「下笠美濃守源高賀奉建」の記述があり、この人が記録上現れる下笠氏の最初です(注11)。② 下笠中将権左衛門
 次に現れるのはたぶん「中将権左衛門」でしょう。宇野日出生氏の論考「村落祭祀の機能と構造」に、「お旅所の別膳は昔は下笠城主の中将権左衛門に撤下[てっか―筆者注]された」という一文があります(宇野日出生233)。下笠中将権左衛門という人物は下笠實親の親か祖父であろうか。そうだとすれば下笠城の築城時期は1450~1460年代の可能性もありうるでしょうし、より深く想像を巡らせば、下笠美濃守源高賀は当地の領主として領主屋敷(城郭)を構えていたのではないかと思われます。なお川端氏は「下笠某が、六角高頼側に捕縛され自殺している事実を見れば、下笠氏が此の地に勢力を持っていたのは長享元年[1487年―筆者注]より数十年以前からであり、大義名分を得たのが長享元年ではなかろうか」と(川端58)。
 上記引用文中の「お旅所」とは老杉神社の頭屋(とうや)行事で「神体を乗せた神輿が巡行(じゅんこう)の途中で休憩する場所」をいいます(ウィキ「お旅所」参照)。
 なお、応仁の乱の勃発は応仁元年(1467)ですから下笠中将権左衛門の時代、京では険悪な空気が充満していたといえましょう。
③ 下笠美濃守
 史料上に現れる3番目の人物は下笠美濃守です。彼の時代はすでに戦国時代(1467-1568)に入っています。下笠美濃守は後述のように応仁2年(1468)の守山合戦で擒(とりこ)となり自死しています(2栗太183)。

 守山合戦とは    
 守山合戦は応仁の乱(応仁元年-文明9年;1467・5・26-1477・11・20)中の出来事です。応仁の乱は足利将軍の継嗣争いに、管領畠山・斯波両家の家督争いが加わり、東軍細川勝元と西軍山名宗全の勢力争いに発展、諸大名もそれぞれに分かれ、ほぼ全国に争いが拡大した。11年に亘る応仁の戦乱で、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。  

(ウィキ「応仁の乱」参照)                              

 西軍六角高頼 × 東軍京極持清 
 近江では、ともに佐々木信綱より9代目に当たる江南の六角高頼が西軍に、江北の京極持清が東軍に属して争う。六角氏は近江守護の座をめぐって、3代6人に亘って互いに争い、この時期に三上荘に数十回陣所を設けた。 
 六角高頼(亀寿丸)× 六角政堯(2年間だけの近江守護)
 六角久頼の子・高頼(亀寿丸)は長禄2年(1458)6月に幕府の命により廃嫡され、従兄・六角政堯(まさたか)が近江守護となったが長禄4年(1460)7月、一族の伊庭満隆の子を殺害する事件を起こした。幕府は彼を追放し、近江守護の座を高頼(亀寿丸)に返還させている。
 守山合戦で、西軍・六角高頼の臣・下笠美濃守ら17人捕虜となり自殺
 
応仁2年(1468) 12月5日、東軍・六角政堯(高頼の従兄)が、西軍・六角高頼の拠る守山城を攻略し、政堯側の京極持清の兵が高頼の観音寺城を陥落させる。六角高頼は此の要衝[守山―筆者注]に城郭を構えて兵備を修む。京極持清の兵二千餘人と六角政尭の兵一千餘人は、高頼の城を前後より挟撃す。両軍血戦終日、攻圍軍は風上に火を放ち民家を焼く。焔炎天に冲(ちゅう)し[空高く上がり―筆者注]遂に潰(つい)ゆ。高頼軍の将、馬淵、下笠(下笠美濃守・後述―筆者注)、楢崎等十七人擒(とりこ)となり自殺す(2栗太183;1草津史589-90)。 
 守山合戦の戦火をうけて、民家大焼し、光明寺(守山・真言)、 大将軍神社(古高)など多くの社寺も焼失と伝える。勝部神社境内も戦場となり、兵馬のため神殿大破、神田・神宝を散失する。        

「勝部付近における戦さの年表」  < file:///C:/Users/ttaka/Downloads/%E5%8B%9D%E9%83%A8%E4%BB%98%E8%BF%91%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%88%A6%E3%81%95%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8%20(1).pdf > 

 六角政堯自害
 文明2年(1470)東軍の京極持清の病没により京極氏が分かれると(京極騒乱)、西軍に京極高清が加わるなど京極氏は混乱し、そのため、一時閉塞していた西軍の六角高頼は近江に勢力を伸ばし、文明3年1471)、六角政堯の箕作(みつくり)城(別名・清水城;六角高頼の観音寺城に対抗して六角政堯が築城)を落とし、政堯を自害に追い込んだ。 

ウィキ「京極騒乱」「六角政堯」

 川端氏は応仁2年(1468)の守山合戦についてこう記しています。「応仁2年(1468年)佐々木高頼(西軍)の被官が守る守山城を、佐々木政堯の命で攻め捕虜となり自殺する。姓名は判らず下笠某とあり。」(川端59)。他方、『近江栗太郡志』は「文明三年[1471年―筆者注]九月の室町家御内書案に下笠美濃守あり」と記し、以下概略こう続ける。下笠美濃守が、幕府から佐々木高頼と山内正綱[佐々木の一族―筆者注]討伐の命を愛けるが、下笠氏は当時高頼に属しており、応仁2年(1468)の守山合戦で擒となり自殺する。然れども下笠某とありて名は記さず。前記美濃守は下笠宗家(そうけ;「本家」と同義―筆者注]なり。下笠氏は依然高頼に忠勤を尽くせり(2栗太182-83頁)。
 上述の3人の下笠氏、①下笠美濃守源高賀 ②下笠中将権左衛門 ③下笠美濃守は「下笠家系図」に出てきません。系図の筆者はこれらの人物の存在を知らなかったということでしょう。
 下笠美濃守の死は応仁2年(1468)であり、次に掲げる下笠左衛門尉實親に先立つ人物です。
④ 下笠左衛門尉實親―下笠初代
 下笠左衛門尉實親(下笠美濃守實親)は、宇野源太郎守治(もりはる)から「10代目」にあたる人物です(川端60)。既述のように、長享元年(1487年)9月、第9代将軍足利義尚(よしひさ)(位1474-1489)が兵力391騎8000人を率いて、守護大名・佐々木六角高頼討伐で栗太郡鈎(まがり)の安養寺に陣を敷いたとき、実親は「鈎の陣」で「一色兵助」を討ち取り、その「報奨」として「将軍義尚」から「下笠五ケ村を知行」し(川端57)、その「土地の名をとって下笠氏を名乗る。」(川端60)。故に、「下笠氏の祖は下笠左衛門尉実親を初代」とします(川端60)。川端氏は「下笠氏」の名の「公認」について次のように記します。「関ノ津[関津城とも綴る―筆者注]城主・宇野氏が下笠方面に勢力を延ばしてきて、いつ頃か宇野氏が土着し下笠氏を名乗る様になり、ハッキリ下笠氏が公認されたのは實親の代からではなかろうか」(川端58)。そして同氏は、下笠左衛門尉實親時代の長享元年(1487)ごろ下笠城の築城があったと見ています(川端57-58)。同氏のご高説ではありますが、筆者は老杉神社にかかわる「下笠美濃守源高賀」と「下笠城主の中将権左衛門」の記録から、下笠美濃守源高賀の時代、「下笠」という名は村人の間に定着し、領主屋敷(城郭)も存在していたのではないか推定します。
  ――下笠左衛門尉實親、将軍に仕え、六角高頼と戦う
 既述のように下笠實親は青地氏同様、鈎の陣では足利将軍に仕え、六角高頼と戦っていたのです。
 下笠美濃守長光―下笠2代
 實親の嫡男「長光」は下笠氏第2代であり(川端61)、彼は「六角方と不和になり、正月朔日に攻められるが、後に青地方からの働きかけにより赦免される。」(注12)青地氏はこのとき佐々木六角氏の臣下であり、同時に下笠氏のために働いていることから、彼はこの時期、下笠氏と友好関係にあったことになる。なお、引用文中の「赦免」が意味することは、下笠美濃守長光は六角氏の被官になったということであろう。長光は永正元年・1504年に死亡しています(川端61、81)。
⑥ 下笠信濃守頼実―下笠3代
 第3代は下笠美濃守長光の子・頼実(信濃守頼実)(川端61)で、彼の名の「頼」は、六角高頼の次男で室町幕府の家臣・佐々木定頼(六角定頼;明応4年-天文21年;1495-1552)の片諱(へんき)(偏諱(へんき)と同。貴人の一字の意)「頼」を与えられています(2栗太184)。このことは、「六角氏当主」は「下笠氏」を重用し、彼を、「強い影響を与えうる家臣の一人」(新谷128)と処遇していたということでありましょう。頼実は「天文15年[1546年―筆者注]4月討死」、「家臣・小寺九郎兵衛討死」、「家臣・小寺兵庫介討死」しています(川端61)。既述のように、頼実たちがどのような戦に関わったのかについては不明です(上記「3.14代六角定頼」を参照せよ)。
⑦ 下笠三郎左衛門弼實―下笠4代
 信濃守頼実の嫡男(2栗太184、3栗太373)・下笠三郎左衛門弼實(すけざね?)は川端氏のいう下笠氏第4代です(川端61)。彼はその名の一字「弼」を、六角義弼(よしすけ)(別名・六角義治、六角義堯)から与えられています(2栗太184)。六角氏の、家臣・下笠氏に対する信頼・期待は変わらないということです。
 永禄9年(1566)、「下笠城主(下笠弼実)」は、「信長派の青地城主(青地駿河守茂綱)」と戦い討死、落城しています(川端20、60-61)。このとき青地氏は、佐々木六角氏を見限り信長派に転向していたということです。いかに生き残るか、それが戦国時代の定めでありましょう。
 他方、信長に対抗した六角義賢は、1568年、信長に観音寺城を占領され、滅亡してゆきます。

 下笠領内での山岡氏と駒井氏の戦い
 下笠城落城前の「天文19年(1550年)3月4日午後」、「勢多掃部介[かもんのすけ―筆者注]家久(山岡氏)と駒井兵部大輔[ひょうぶたゆう―筆者注]氏秀(駒井氏)が下笠村に於いて合戦し、寺内[西照庵(曹洞宗)の―筆者注]に乱入して放火する。この時三宇の堂宇焼失したが、弘治[(こうじ―筆者注]3年(1557年)薬師堂・観音堂・大黒堂の三宇再建する」(川端80-1)。
 山岡氏と駒井氏がなぜ下笠領内で合戦し、なぜ禅寺・西照庵に乱入し、さらにどちらの軍が寺に放火したのか、またこの合戦で下笠氏と六角氏はどういう動きをしたのか分かりません。
 上記山岡氏は、勢多城(別名瀬田城、山岡城;出典「瀬田城」< https://kojodan.jp/castle/257/ >)を中心に近江国南部を領した甲賀郡出身の山岡景隆(1525-1585)の一族でありましょう。

 青地茂綱と駒井城主の最期
 元亀元年(1570)9月、佐々木氏最後の将・佐々木義治が旧臣・浅井長政と朝倉義景らを集め、信長に対抗して信長派の森長可(ながよし)の居城、大津・宇佐山城(別名志賀城)に迫る。この時、森長可と青地茂綱らは迎撃に出て共に戦死しています(1栗太623)。青地茂綱、享年41。
 天正9年(1581年)、六角氏一族の、坊の城(駒井城)・城主駒井氏は「時世判断を誤ったのか」、「最後まで佐々木六角氏に仕え」、「以前は同じ佐々木六角氏被官であった織田派の勢多城主・山岡景隆」に「攻められ」て落城し「滅亡」しています(注13)。なお山岡景隆に天正10年6月2日(1582年6月21日)明智光秀が本能寺の変で織田信長を倒したあと安土城へ向かうのを、瀬田橋を焼き落として進路を阻んだことが「太閤記」にあります(注14)。

 落城後の下笠
 下笠氏滅亡後、「当地は織田家被官佐久間信盛が領していたと思われ」る(川端20)。下笠城の「城跡は、近世には下笠忠右衛門の宅地となり、堀は悉く埋め立てられ田畑となったという。」(注15)。 
 第4代弼実は討死しました。第5・6・7代は旧姓宇野氏にかえり、第8代利治の時、膳所藩主本多隠岐守康廣より下笠氏を名乗ることを許される(川端61)。    

市場・寺内・北出・・・
 ウォーキングを続けましょう。下笠城址をあとにして前述の下笠会館前のびわこ通りを横断すると、南側前方に「市場・寺内・北出・南出・小屋場」が開けています(注16)。これらの地域を含め、下笠は城下町時代、おそらく活気を呈していたに違いありません。その推測を、いくらかの史料は許しています。
 下笠という農村は、かつては周辺村落と較べてかなり広域だったようです。栗太郡梨原郷(なしはらごう)は「常盤村・笠縫村の大部分・大宝村の幾部」からなり(川端3)、その中に「下笠・上笠・野村・平井・小平井・川原」が属し、これら6村を以って「一庄」としたのに対し、「下笠は一村で笠庄の下笠郷と呼ばれていた。下笠の中に小字集落として、馬場・井本(井ノ元)・下出・市場・寺内・南出・小屋場の七ケ村があったと近江輿地志略(享保19年・1734年発刊の歴史書)に記されています。」ここに「北出が記されていないのは脱落か、それとも当時は無くその後に成立したかは分かりません。」(川端5、40)これらの記述から、下笠という農村は周辺の集落に較べて広域だったことが分かります。
 下笠に「市場」という地域があります。当地は城郭時代、おそらく物品の交換、販売で活気を呈していたに違いありません。川端氏によりますと、「『市場』は、ハッキリと下笠城が在った時代に夷川を利用した市場が開かれていた場所からきています。」(川端40)
 下笠は、城を造営・維持し、城主が家臣団を抱え、馬場で武士を鍛錬するのに足りうる財力を有した地域であったと見たいのです。もっとも、中世の武士は、江戸時代の武士のように主君から扶持(ふち)を得て生活するのではなく、農村に住み、直接的・間接的に農業に従事し、百姓名(みょう)を得て村落の管理運営にあたる名主層でもあったとしても、です(1草津史619)。
 商工業の発展は不可欠であったことは想像に難くありません。『古地図に描かれた草津』という本があります。それを開きますと、

明治十三年(1880)刊の『滋賀県物産誌』によると戸数は三八五軒で近隣の村に比べかなり多い。また、このうち農家が三二六軒であるが、大工・屋根葺・桶工といった職人が二二軒、各種販売店や飲食店などの商家が三七軒と、商工家の比率が近隣の村に較べ高いのが特徴である。近隣農村の需要に応える町場的な性格を有した農村であったといえよう。

『古地図に描かれた草津』68頁

 本書は「明治十三年」刊でありますが、村落の形態というものはあるとき突然に出来上がるものではなく、長年の経過とともに出来上がっていくと考えてよいでしょう。「近隣農村」の「町場的な性格を有」した「市場」の原形は、城郭時代に出来上がっていたと考えたいのです。
 さらに川端氏は下笠城の「全景」についてこう推測しています。「西側は琵琶湖迄広がる湿地帯で敵の侵入を防ぎ、南側は夷川を利用した通船で、市が開かれ賑やかであっただろう。大手門は東にあって、大手道は東に走り井ノ元の高札場跡へ続いていたと思う。何故なら高札場の設置場所は、その地域の一番繁盛した賑やかな場所に設置している事実が多くあるからです。」(川端59)  
 『草津市史 第二巻』付属の地図「近世の草津市域」を開きますと、下笠のすぐ近くに船の絵が描かれています(後掲地図参照)。当時の琵琶湖は、今では想像もつかないぐらい陸地部に入りこんでいたようです。「夷川」に加え、この船着き場に着いた商船・漁船は、積み荷の産品・魚介類を荷揚げして市場へ運んだと考えてよいでしょう。下笠の商工業の発展を想像したいのです。
 江戸初期の米の生産量を他地域とくらべてみましょう。笠縫八ケ村「上笠、野村、平井、川原、駒井沢村、新堂、集、下笠」の中で、「下笠」は「1648石」であり、2位の「上笠」「895石」を大きく引き離しています(川端50-51)。
 文化の中心地でもある、笠縫八ケ村の戦国時代(1467-1568)における寺院数を単純比較してみましょう。下笠は8寺院中2寺院(宗栄寺は1623年開創;順光寺は天保年間・1830~44年に山田から移転)を除いて6寺院、上笠は5寺院中1寺院(行者堂創建は明治時代)を除いて4寺院、野村は5寺院中1寺院(明光寺の開基は延宝(えんぽう)元年・1673年)を除いて4寺院、駒井沢は4寺院中1寺院(戒定院の開基は1843年頃;毘沙門堂の開基は不明)を除いて3寺院、集は4寺院中1寺院(宗休寺の開基は1730年代)を除いて3寺院、川原は2寺院中1寺院(観音堂開基は明治初期)を除いて1寺院です(川端64-81)。寺院の多さは文化の発展と賑わいを示す一指標となりましょう。

  寺内
 寺内(じない)という地域があります。川端氏はこれを宗栄寺の寺領とみています(川端40-41)。本寺については後述します。

  市場・寺内・北出・南出・小屋場
 市場をあとにして、直進、あるいは右・左と歩けば、「市場・寺内・北出・南出・小屋場」が広がっています。現存の町の規模が、城郭時代とどれほどの違いがあるのか分かりませんが、こんにちでは町自体は小さく、往時を偲ばせる遺構などは見つけることが出来ませんでした。

下笠の3寺院
 特徴のある寺院を3つ取り上げましょう。
 宗栄寺
 宗栄寺は交番前のびわこ通りを横断して南へ徒歩5分ほどの距離です。この寺(浄土宗)は、勢多(瀬田)城主山岡景隆(1525-1585)の没後、「長」という名の未亡人が当地に移り住み、宗榮尼と称して夫の菩提を弔っています(注17)。豊臣秀吉(1585年従一位関白宣下、1598年没)は彼女に養老料として五十石の地を与えました。夫・景隆が生前、本能寺の変後の天正10年(1582)、安土城へ向かう明智光秀の進路を阻むために瀬田橋を焼き落としたことの論功でありましょう(川端77)。宗榮尼は元和9年(1623年)6月6日逝去、知光院賢譽宗榮と謚(おくりな)されています。山岡景隆の七男・主計頭(かずえのかみ)景以(かげもち)が母の遺命に従い、住地を寺(宗栄寺)としたのが始まりです(注18)。
 宗栄寺はいまなお寺院としての威厳が感じられます。主たる理由は「子孫のもの入って僧となり香華を供せり、幕府は境内を除地とし殺生禁斷の制札を寄せて保護を嚴にす」、にあるようです(5栗太463;川端77)。なお、宗榮尼は佐々木氏の家臣水原河内守秀清の娘でありますが、彼女が下笠に「移り住」んだ確かな理由は分かりません(注19)。
 西光院
 宗栄寺から南へ3分ほど歩くと、宗栄寺と同じ浄土宗の西光院があります。当院は『近江栗太郡志』に「文明九年[1477年―筆者注]眞譽運阿彌の開基する所なり」とありますが(注20)、「下笠系図」に「美濃守長光が開基」と「記され」、下笠氏の菩提寺であり、境内に「下笠城々主歴代の墓石」があります(川端60、61、81)。だが今日では墓石数は、開基当時の三分の一ぐらいに減っているようです。当寺の現状は、宗栄寺にくらべ、寂寥感が漂っています。500年という星霜は何ごとにおいても変化をもたらすものです。
 西照寺
 西照寺は上述のように「天文19年(1550年)」に放火に遭い、「弘治3年(1557年)」に再建を果たしましたが、「元亀元年(1570年)佐々木六角承禎の軍兵、笠堂坊主舎ことごとく放火焼失させる。天正3年(1575年)奉加勧進し一宇を再建」する(川端80-1)。このように、本寺は「何度も戦火に遭い、再建再建で人民・財政も疲弊に達し、栄華を誇った下之笠堂も往古の面影もなく小堂一宇を残し現在に至る。」(川端81)西照寺は老杉神社の一の鳥居を出て右折し、浜街道を横切って直進すればすぐの所にあります。確かに「往古の面影」はありません。
 他に専立寺、光林寺、専念寺、専崇寺が、そして当然宗栄寺、順光寺も現存します(川端78-81)。

ウォーキングを終えて
 ウォーキングを終えて沈思黙考するに、下笠は、今日もなお中世の村落の形態をとどめる静かな農村地区であるということ、そして人びとの気質は温和で日々の暮らしをゆったりと営んでいるということ。この点で、大都会の雑踏と喧騒に疲れ、当市に移り住んだ者には思いがけない僥倖で、タイムスリップの感があり、ここに中世の残照を見ます。加えて、建築物では、西光院・西照寺・宗栄寺のような寺々に500年余の歳月の流れを想念しました。他の所では中世を偲ばせる遺構・遺跡は見つけられませんでしたが、強いて思いを馳せれば、人々の静けさ、優しさ、素朴さであります。この気質は、中世の下笠人(びと)のそれであったでしょう。室町幕府の弱体化が戦国時代をもたらし、人々は、親族さえ敵味方にわかれて殺戮しあい、農家・商家・蔵・城郭を焼き尽くしあいました。憎しみと破壊の後に何が残ったか。富は灰燼と化し、悲哀と後悔だけではないか。戦いさえなけれ・・・。いつの世にも言えることだが、人々は共存共栄しておれば、親子きょうだい、隣人、みな幸せを謳歌できる。問題が発生すれば武器を取るのではなく、時間をかけて解決すればよい。人間にはそれぐらいの知恵はあります。下笠よありがとう。

       「下笠町地図」(出典:「YAHOO!マップ」)
   地図上でマウスを左クリック(2回)すれば拡大図が得られる

 「下笠町地図」(出典:「YAHOO!マップ」)

  平成八年(1996)の調査による「下笠町地域区分図」
地図上でマウスカーソルを左クリック(2回)すると拡大図が得られます。       

国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ宇野日出生著「村落祭祀の機能と構造 滋賀県草津市下笠町の頭屋行事を中心に」< file:///C:/Users/ttaka/Downloads/kenkyuhokoku_098_09%20(1).pdf >平成八年(1996)の調査による「下笠町地域区分図」(論文末尾に収録)本図の「小屋場」は「小屋場浜を含む」です。

   『草津市史 第二巻』付属の地図「近世の草津市域」
地図上でマウスカーソルを左クリック(2回)すれば拡大図が得られます。 

『草津市史 第二巻』付属の地図「近世の草津市域」(草津市史第2巻 付図1)「 近世は、江戸幕府の創立 (1603 年)から明治維新による東京遷都(1869 年)まで、あるいは関ヶ原の戦い(1600 年)から大政奉還 (1867 年)に至る間をさす。 」(立正大学日本史att/nihonshi.pdf < https://www.ris.ac.jp/library/learn/cb6q790000000704->) 

         滋賀県中世城郭分布
地図上でマウスカーソルを左クリック(2回)すれば拡大図が得られます。

滋賀県中世城郭分布調査3(滋賀県教育委員会発行、1985、120頁)        
本図は2024年5月28日に掲載しました 


注1
.明治22年(1889年)4月の町村自治制の実施で「笠縫八ケ村」、「上笠、野村、平井、川原、駒井沢村、新堂、集、下笠」が誕生し(川端2、7)、昭和30年4月1日、「大字~」は「~町」に(「大字下笠」は「下笠町」のように)変更され(出典:< https://www1.g-reiki.net/kusatsu/reiki_honbun/k007RG00000003.html >)、小字名は表記されず「下笠町〇〇番地〇〇」となった(出典:< ttps://www.city.kusatsu.shiga.jp/kurashi/kosekizyuuminhyou/oshirase/shinchikutodoke.files/jusho_hyouki.pdf >)。
注2.「古文書」によると「下笠」に「鎌倉時代中頃の文永年間に笠庄(かさのしょう)という奈良興福寺の荘園があっ」た(「滋賀県文化財保護協会< https://www.shiga-bunkazai.jp >TOP>新近江名所図会」)。
注3. 出典:ウィキ「戦国時代」;「古典籍総合データベース」< https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/ga_jhistory/history.html >)。
注4.『応仁記』においては「六角四郎高頼」という名前がみえ、『滋賀県史』などは亀寿(「六角亀寿」)が元服して行高と名乗り、のち高頼と改めたとする(ウィキ「六角政頼」参照)。
注5.出典:「広報りっとう< https://www.city.ritto.lg.jp/koho/2005/051_4.html >」
注6.青地氏と駒井氏は共に佐々木六角の一族とする情報源は1草津史480-81、500-508、611、659;ウィキ「青地氏」です。
注7.出典は、川端41、57-58、60-61、「鈎の陣」< https://www.kaho.biz/main/magali.html >。
注8.「下笠左衛門尉六角殿方ニ而十一備(ソナヘ)の内又三家アリ」、すなわち「下笠左衛門尉が六角方の十一備の一家であった」(新谷128、130)。「備(そな)えは、戦国時代から江戸時代において戦時に編成された部隊」をいう(ウィキ「備」)。
注9. 出典は川端58、60-61;「鈎の陣」< https://www.kaho.biz/main/magali.html >);「近江の城めぐり」< https://shiroexpo-shiga.jp/column/no61.html >。[関津城]< http://yamajirooumi3.g2.xrea.com/2520101.html >も有益。 なお、新谷128頁に「下笠ハ元関津の宇野氏なり」の言及あります。
注10.出典は川端60-61。なお、下笠實親の名を「下笠美濃守實親または下笠左衛門尉實親」と記すとき、「美濃守」は官位(官途と同じ)、「左衛門尉」は官職です。ちなみに「官位(官途)は「主として戦国時代から江戸期にかけて、武士が任官または自称した」名をいい、「官職」は「日本の律令制下の官職のひとつ」をいう(ともに出典はウィキペディア)。 新谷130に「左衛門尉には兄弟があり、次男が中條、三男が宇野をそれぞれ名乗った」があります。
注11.出典:川端41、57、89-90;1草津史688-89;「草津市:老杉神社」< https://www.sigatabi.com/kusatu/oisugi.html >; 「滋賀県神社庁」< http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=359 >。
参考:宝徳4年7月25日に「享徳」に改元されています。従って、宝徳4年は享徳元年でもあります(ウィキペディア「宝徳」参照)。川端氏に「宝徳4年(1452年)」(57頁)、「享徳元年(1452年)」(41頁)があります。なお、1草津史 688頁に、縦書きで「宝徳」の下に「二」が二つ並列されていますが、なぜ「四」と示されないのか分かりません。
注12.川端61に、美濃守長光は「六角氏と不和となり青地氏麾下」とあり、新谷130(原文128)により詳しく、「左衛門尉の嫡男長光は六角方と不和になり、正月朔日に攻められるが、後に青地方からの働きかけにより赦免される」とある。 「朔(さく)日(じつ)」は「陰暦で、月の第一日。ついたち。」(ウィキ)
注13.出典:川端56;ウィキ「山岡景隆」参照。 駒井氏と青地氏は共に六角氏の一族であるとする情報源は1草津史480-81、500-508、611、659;ウィキ「青地氏」です。
注14.出典:大津市歴史博物館< https://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/db/jiten/data/161.html >;2栗太52。
注15.出典:新谷132-33。 上記引用文中の「下笠城の『城跡は、近世には下笠忠右衛門の宅地・・・』」の「城跡」について新谷はその出典を「『大日本地誌体系三 近江国與地志略 上」(大日本地誌刊行会、一九一五年)。」と記す。 前記「城跡は、…」の論及と類似する興味深い言及が『近江栗太郡志』(巻三、373頁)にある。「下笠古城 下笠村在、今下笠忠右衛門宅地是也、下笠信濃守が嫡男三郎左衛門弼實居城す、永祿九年青地駿河守茂綱と戰て死す、近世悉く堀等を埋田畑とす。(改行)と見へ享保の頃旣に開墾せらる、此地に八幡神社鎭座あり是れ同氏の守護神なり、近年老杉神社に合併す。」(『近江栗太郡志』巻三、373頁)「八幡神社」は城中にあったということか? 「下笠忠右衛門」と名乗る人物は下記のように複数存在します。「下笠忠右衛門尉正治」、「下笠忠右衛門尉利治」(川端61)。
 5代宗治は下笠城破却にて隠密に出生。6代長右衛門尉種治、7代忠右衛門尉正治(膳所藩代官)、8代忠右衛門尉利治(下笠氏を名乗ること許される)。8代利治(光貞)以後、14代真栄(明治6年死去)に至るまで膳所藩の代官職を世襲する。(以上、川端61)。 なお、新谷131に「下笠の名乗り」の「定着」にかかわり、次の言及がある。
 「これは、草津市下笠町の下笠忠右衛門家に伝来した文書であり、写真帳が滋賀県立図書館に架蔵されている((4))。下笠忠右衛門は、江戸時代に膳所藩の郷代官をつとめた。郷代官は、在村のまま郡方役所の指導のもと民政に携わり、苗字を名乗ることを許された特別な百姓である((5))。同文書群には、代官の役料や屋敷地の租税免除に関する史料がいくつかみられる。宛所は下笠忠(註)右衛門や紋次などとある他、宇野忠右衛門とするもの(元禄六年九月二日付)もあった。これは、下笠家のルーツが宇野家にあるとする①の記述[「①の記述」略—筆者注]とも整合する。卯八月一六日付で榊原新八・村松伴右衛門が忠右衛門に宛てた文書によると、忠右衛門は先祖の名字である下笠を名乗ることを希望し、由緒の書付を膳所藩に提出している。下笠の名乗りが定着するのはそれ以降であろう。」
 上記引用文中の(4)は「木下・下笠・宇野・飯田家文書写真複製版 草津市(請求記号一E―二一〇一―三八)。」、引用文中の(5)は「『草津市史 第二巻』(草津市、一九八四年)。」を意味する。なお川端61頁に「忠右衛門尉利治(8) 下笠氏を名乗るを許される」とある。  「郷代官」は「ごうだいかん」と読むのであろう。「膳所藩」には「農村支配機構」として「郡奉行―地方役-郷代官―村役人」があり、「郷代官は、農村に居住して身分的には百姓であるが、苗字を許されおり、郡方役所の指導のもとに民政に携わっていた。郡代官の任務は、管轄村々に触(ふ)れを伝達すること、各村からの届け・願い等を郡方役所に取り次ぐことであった。」(21草津史152-53)
注16.「下笠は、下笠城が落城後大きな改変があったのだろうか、今までの村は無くなり新しく下笠村が誕生し、その中に小字として、馬場・井ノ元・下出・市場・寺内・南出・小屋場・北出(?)が生まれる」とあります(川端6)。川端氏はこうも記しています。「上記してきた小字名は、下笠城が永禄9年(1566年)に滅んだ後の小字名で、それ以前の小字名であったのは確か(重複しているかも)であるのですが、ハッキリ分かりません」(川端41)。これらの記述は、下笠村は落城後、青地軍に焼き討ちされたか、とも想像させます。
 宇野日出生によると、下笠地域の、「平成八年」現在の行政域は、従来は8地区であったのが、「近年の人口増による造成地域」の「小屋場浜・松原・松陽台」の3地域が加わり、11地区からなる(宇野日出生222)。これらのうち「松原は昭和初期に集落として成立し、浜は以前には小屋場浜と呼ばれており小屋場に属していたが、昭和28年(1953年)一つの集落として分離独立しました。」(川端40)なお上記宇野氏のいう「8地区」については本稿末尾に添えた「下笠町地域区分図」の、実線で枠取りされた部分を参照されたい。
注17. 出典:川端77、5栗太461。 瀬田城主・山岡景隆の未亡人「長」が、夫の菩提を弔うためになぜ下笠に移り住んだのか確かな理由は不明ですが、あえて詮索すれば、山岡景隆と親密な仲であった関津城城主・宇野氏との親密な関係でありましょうか。その宇野氏の先祖に「関津(せきのつ)城」(関ノ津城;別名「宇野城」)・宇野源太郎守治(宇野源太郎守治)があり、彼から「10代目」にあたる人物が「実親」(下笠美濃守實親または下笠左衛門尉實親)です(川端60)。つぎの史料は宇野氏と山岡氏との密接な関係に言及しています。
滋賀県立安土城考古博物館 藤﨑髙志著「関津(せきのつ)城跡」< https://www.city.koka.lg.jp/secure/14819/siryou.pdf >。
関津城の「城主の宇野氏は、近江守護六角氏の重臣青地氏に付属しつつも、台頭する瀬田城の山岡氏と親密な関係にあり、園城寺や石山寺とも密接な関係にあり、幕臣でもあるなどの徴証があるものの、不明な点が多い。
*『栗太郡誌』山岡氏系図(備後福山阿部家士山岡氏本)    
景冬(山岡美作守)
   山岡美作守景冬幼少ニ而父因幡守卒ス故ニ宇野源太郎清治入道玉林斎居城田上嫡子宇野光治ニ
   譲り而勢田之城ニ住シ而山岡玉林斎ト號シ景冬ガ後見ト成ル景冬成長之後玉林斎ハ勢田近辺ニ安
   居ス景冬一生勢田の城ニ住シ而将軍家ヲ守護シ而有軍功
 
某(山岡右近)      
   母ハ水原長門守平ノ重久娘也実は宇野清治カ二男宇野源之丞國治カ嫡子也二才ノ時ニ父國治卒
   ス其妻再ヒ山岡景隆ニ嫁ス景隆以右近為養子山岡ヲ名乗ラシム
*『寛政重修諸家譜』山岡氏系図
 景就(景澄 因幡守) 妻は宇野源太郎清治の女
 景之(景冬 美作守) 母は宇野源太郎清治の女、妻は和田惟政の女
 景隆(美作守)    母は和田惟政の女、妻は水原河内守重久の女 (下
 線 筆者、以下同)水原河内守重久の女の最初の夫は宇 野源之丞國治
景隆の男景興(右近)の父は宇野源之丞國治
 ウィキ「山岡景隆」では「父:山岡景之、母:和田惟正娘」「妻 水野重久娘・山岡宗栄」だが、5栗田では「宗榮寺は笠縫村大字下笠にあり淨土宗なり、元和九年勢多城主山岡景隆の未亡人名は「長」宗榮尼歿しその菩提のため創建する所なり[・・・]尼は佐々木氏の臣水原河内守秀清の女なり、元和九年六月六日逝去し知光院賢宗榮と謚[おくりな―筆者注]す」(461頁)。上記「水原河内守重久の女」と「水原河内守秀清」は同人物と思われるが、名前の表記が異なる。どちらかに誤りがあるのだろう。
注18.出典:川端77;『近江栗太郡志』巻五、461頁。
注19.川端氏は「家臣永原河内守秀清の女」と記していますが(77頁)、筆者は『近江栗太郡志』巻五、461頁の記述に従って「家臣水原・・・」と記しておきます。
注20.出典は5栗太463。 なお川端氏には「西光院」は「文明13年(1481年)眞譽運阿彌の開基する所なり」(川端81)とあり、出典が異なるのだろうか。

参 照 文 献 表
略語
ウィキ    ウイキペディア
宇野日出生  宇野日出生「村落祭祀の機能と構造 滋賀県草津市下笠町の
       頭屋行事を中心に」、「国立歴史民俗博物館研究報告  第98
       集』2003年3月。
川端     川端善二『ふるさと笠縫』平成22年(2010年)。
1草津史    草津市史編さん委員会編『草津市史 第一巻』草津市役所、
       昭和56年。
2草津史    草津市史編さん委員会編『草津市史 第二巻』草津市役所、
       昭和59年。
1栗太     『近江栗太郡志』
2栗太     『近江栗太郡志』巻貳
5栗太     『近江栗太郡志』巻五
新谷      新谷和之著「下笠覚書(大阪公立大学蔵) 」市大日本史. 25 巻,
        pp.128-133.< https://www.i-
        repository.net/contents/osakacu/kiyo/13484508-25-128.pdf >
村井        村井祐樹『戦国大名佐々木六角氏の基礎研究』思文閣、
                       2012。

付記.本ブログの執筆者寺内は英文学とキリスト教の研究者でありまして日本史家ではありません。40年ほど前に草津市に引っ越してきまして、付近をウォーキングしていますうちに、当地の歴史性に深く魅せられ、書きたいという衝動に駆られて関心の向くままにSNS(goo blog と note)を執筆しました。一生懸命に書きましたが、記事内容に誤りや、明らかな不足等がございましたら修正させてもらいます。ご指摘方よろしくお願い申し上げます。

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