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〔祇園 ない藤〕での『京を味わう東京土産-覚悟でござい-河鍋暁斎おまけ付き』シークレット企画「桂吉坊おもかげ落語会」へ。

日頃より、お世話になっている、桂吉坊さんから、ある日、連絡が来た。

「あなたの記録魔(褒めてます)を見込んで、イベントのお誘いが一件」

よくよくお尋ねしたら、〔祇園 ない藤〕さんで、お得意さまをご招待しての催しがある、と。河鍋暁斎の真筆を店内に展示し、その中で、落語会をします。
誰かの記憶に残しておいた方が良いのでは、と、数人に声を掛けています。「どんな事になるか、全くわかりません」。

その、会の名前が、

なんのこっちゃ。覚悟、とは何だろう。日本ひっくり返しの巻、とは?

〔祇園 ない藤〕さんのFacebookより。やっぱり解らん。

不粋な流行り病で、歌舞伎やら落語会やら、アノよしもとの各劇場も宝塚も、果ては都をどりまで、色んな楽しみが奪われている中での、この催し。そして、吉坊さんからのお誘いの末尾に「京都の町衆の恐ろしさを実感するイベントになると思われます」

3月19日、怖いもの見たさと特別扱いの嬉しさ、何より、生の芸事に触れられるのに、意気揚々と鴨川を渡り、等間隔に離れて座る濃厚接触を尻目にコロし、

悲しく覆われた一文字看板を見て、

真っ直ぐ行た突き当たりの八坂神社で、時季外れの茅の輪くぐりして、また引返す。この時季外れに出すのは、明治10年のコレラ以来、143年振りだそうな。

ちょっと汗ばむ陽気の中、〔祇園 ない藤〕さんへ。案内には、昼3時から開場とあり、夜7時開演の落語会にしてはエライ早いな、思いながら、中を覗くと。

所謂、京の町屋の鰻の寝床に、所狭しと全部真筆。その数150点以上。こういう時、唸るしかない。学生時代に学芸員の資格を取ったのだが、その感覚では、トウテイ考えられない。


ない藤のご主人と吉坊さんにご挨拶。芳名帖の横には消毒用アルコール。
会場内へと通して頂く。身体を細うして、すり抜けて奥へ奥へ。先客の方と「カーテンみたいですね」とすれ違いざまにご挨拶。なんというか、冗談の一つも言うとかないと、落ち着かない。子どもが走り回っている。他人の子でもキモを冷す。

まず、店の玄関を入った所、タタキに、

鍾馗さんの軸を集めて。

なんてのが、鍾馗さんだけで十も二十もある。疫病退散に拝む。シャレたあんのが、玄関入って一番最初に目が着く所に

やっぱりこれが一番のカタキか。こっちには巡り合いたい。

てもまぁ、この濃厚接触。写ってる影はスマホの影。

普段は売り物を並べてらっしゃる所に、

巻物が並べてある。巻物を押さえてるのが、

こういう所でお商売が出る。
巻物は盲人が大蛇のようなモノに掴まっている場面。盲、平兵衛に怖じず。今日聴けるやろか。
座敷に上がらせてもらう。まず、最初の間は、

扇面に描かれたものやら。蛙の絵がたくさん。

この木琴は、歌舞伎座で使われたものらしく、

蝙蝠の絵が描かれている。成田屋の誰が使わはったんか。暁斎自身も蝙蝠は好んで描いたそうな。

他に、

お能から題を得たものも。高砂や羽衣もあった。
次の間に。こちらは、

妖怪変化の間。手長足長や大津絵の鬼など。この、軸の後ろには、

福禄寿や恵比寿大黒の軸が隠れている。写真が見にくいけど、どうぞご勘弁のほど。撮れるには撮れるんですが、何せ距離が近くて、怖くて。


次の間へ。
こちらは、

動物の間。烏がたくさん。名高い烏一羽百円、今の値段で、と換算する、そこが畜生の……やない、凡夫の浅ましさ。が、凡夫ながら、一番、暁斎が引く線の凄さを味わえた一間だった。

墨の濃淡だけでの描き分けの見事さに唸ったり、

珍妙な図柄に噴き出したり、

お馴染みの作品でも勢いが違う、と思ったり。お馴染み、ボラが立って素麺食てる所。

通りにわにも、先が見通せぬ程お軸が掛かっており、

上には、上がある。

お誘いを受けた時に、ちょっとは勉強しとかな、と思い、フラッと寄った古本屋で、

『酔うて候ー河鍋暁斎と幕末明治の書画会』(成田山書道美術館・財団法人河鍋暁斎記念美術館編)を買うて、表紙のような展示、書画会のイメージを膨らませていた。実際は人と絵の位置が逆転したような、異質な空間。

天才書家・山岸雲石(荷葉)との合作。股くぐり。九童とあるのは、9歳の謂か。書画会ではこのような合作も多くあったそうな。

前掲書にも載っている『盲人の書画会』。中の漢詩は、文科大学の教授や貴族院議員も務めた重野成斎による。「過剰なまでに書画会を開催する当時の人びとに対する鑑識眼の無さを風刺した、暁斎ならではの一点であるといえるだろう」と。鼻が高いのは、天狗。自信過剰の書画家や批評家への揶揄。

こんな風に、撫で回すように、暁斎真筆を見られるとは。

吉坊さんと立ち話。

「しかしまぁ、スゴいですねぇ」
「せやろぉ。でも、可愛らしいのもあるねん」

と、案内して頂いたのが、通りにわにあった、

吉坊「これな、恵比寿大黒が旅してるんやけど、大黒が鶴に乗って、先に飛んでってしもてるねん。恵比寿が、おぉーい!言うてるのに、完全に無視や」

ほんまや。

吉坊「あと、あの上の瓢箪もエエやろ」

吉坊「あれを手拭いにしたいなぁ」

ちょっとえべっさんの声色を使われたり(野崎詣りみたい)、絵を見て「手拭いにしたい」という、落語家さんの部分に触れて、感激。こんなによくして頂いているのは実は、高校の先輩・後輩、という間柄ゆえでもあります。
なので、甘えてしまう部分もあり、

「で、今日は何をされるんですか?」
というような不躾な事を訊いてしまう。

「さ、それが、何にしようか悩んでる。コンナ御時世やから、風の神送りをしようか、思たけど、この会場見たら、もう吹っ飛んでしもて。いっそ不条理なんがエエかも」
「不条理……。絵の噺で、応挙の幽霊はどないです」
「今から覚えんならん」
「楽しみにしてます。で、ほんまに、此処で落語会ですか?どこが舞台で?」
「お楽しみに」

と、二階の楽屋へ消えて行かれた。
座敷に座り、また、絵を見る。

色々な線を引く暁斎ですが、彼らしさが出る事はあっても、線自体に妙なクセや奇矯さが出ていません。これは多流を写すうちにクセが濯がれていったのか、形象に則した線を探すうちに無駄が無くなっていったのか、何にせよ、いやらしくこれ見よがしな感じが無いのです。
山口晃『ヘンな日本美術史』(祥伝社)より

この絵に就いて、お尋ねするのを忘れてしまった。かなり酔っ払っての筆のような。
後日、このnoteを読んで下さった吉坊さんが、これら暁斎作品の持ち主の加納節雄さんに訊いて下さった。大きなハマグリの絵だそう。
やはり酔筆らしく、
「酔っているから署名が大きくなっている」
そうな。ご教示ありがとうございました。

二階から、お囃子さんが、三味線を合わしているのが聴こえてくる。何ともエエ雰囲気。

上がり框に腰掛けてご常連さんと話し込まれている、加納さんの話に聞き耳を立てる。
「赤や青の照明は、お化け屋敷をイメージしたんだよ」

加納さんは、松岡正剛さんの〔本楼〕を、今日のように暁斎で埋めた御仁。本楼でのイベントと同じく、「MGS」さんが照明を、設営は「組や」さんが協力された。

「こういうのが続いてくれたら、面白いんだけどねぇ」
東京土産の、覚悟、かぁ。何となく、五社英雄作品を思出した。『雲霧仁左衛門』の狂乱する丹波哲郎のシーン。

夕六時半。絵を見に来たお客さんは帰られ、落語会のお客さんがチラホラと。
吉坊さんからご招待された、茂山逸平さんや、井上安寿子さんのお姿も。
安寿子さんに、都をどり残念です、とお伝えする。が、二の句がうまく継げず、御愁傷様です、と。アガる癖してこういう所、直さなアカン。
都をどり、また、本当なら翌日京都芸術センターで安寿子さんの珠取海女を観られるハズだったのだけど、残念。

あ、でも、逸平さんは、〔THEATER E9 KYOTO〕で3/20より開催された『いいないん ええよにん』、21日夜の回で縄綯を拝見できた。千之丞さんが太郎冠者、千五郎さんが主人、逸平さんは相手の何某。
能舞台でなく、ブラックボックスでの狂言。袖への入りハケがあり、場転を多用したシュッとしたコントぽかった。閑話休題。

ひょっとしたら近所にいらっしゃるかな、とお誘いしました、と吉坊さん。「ニートですから」と来はった安寿子さんに、吉坊さん「僕も3月は無職ですわ」。笑うお二人。芸を持ってる人の凄みに触れた気がして、ヒリヒリした。

夜七時、開演時刻に。奥へどうぞ、と、言われても、座席がわりの座布団がある訳でもない。先ほどと同じく、座敷には掛け軸がぶら下がっている。お客さんはざっと三十人ほど。あっちウロウロこっちキョロキョロ。駿河町畳の上の人通り。古川柳さながら。

ない藤ご主人「直感的に、お好きなところへ」詞に人々席に着く。ご挨拶あり。

ない藤さん「タイヘンなご時世の中、色んなものをカイクグッテようこそお出で下さいました。掛け軸がたくさんあっての落語会です。落語を聴いて笑う、また、掛け軸を見てニヤニヤして頂いたり、そういう趣向でございます。皆さん、ご自由に。
で、吉坊師匠、どちらにいます?」
「ハイハイ、いますよ~」
「ええ、いてはるみたいです。では、お願いします」

「よろしくお願いします」
と、妖怪の間、福禄寿の掛け軸の後ろから、登場。黒の羽織に黒と紛うような紫、帯は黄土色で、ラクダの一行が描かれている、のが判るくらいの距離。近。
「桂吉坊です。よろしくお願い致します。
皆さん。どうなるやろ、思ってらっしゃると思います。私も判りません。
ね、この、微妙な緊張感!判ります。どこで落語やるんやろ、ですね。
もう、観たい人は観てもらう、また、絵を見ながら耳で楽しんでもらう、どちらでもよい、そういう趣向です。
ない藤さんも仰有ってました、色んな中をカイクグッテ、そして、色んなものをアキラメテ、来て頂いているかと思います。招待状にもございました、覚悟、覚悟の上でこないしてお集まり頂いて……なんやこない車座になってる中で立ってますと、御法話みたいですね。
高座が無いので、座るのは、どこでもいいそうなんですが、アッチの方が良い、と、いま私の周りにいる人が顔で言うてます。
が、ここに座らせてもらいます」

と、結局妖怪の間に座布団を敷いて座られる。そう言えば昔、「座敷わらわしの会」という名の会をされていたっけ。

吉坊「まぁしかし、どこ見て喋ったらいいか分かりませんね。
ない藤のご主人から、暁斎の絵の中で落語会する、と聞いた時に、それ面白いですね!と他人事のように返事して只今、コーカイしておりますが、ま、私は落語やってますので、音として、聴いてください。気楽に。
一席目はここで、二席目は、上にでもいてみようか、思うてます。
先ほど、ない藤さんが、会の名前は、見えへんとこでやるから『おもかげ落語会』にしよう、と言うて下さいまして、オモカゲ……テレワークより遠くになってしまいました」

ない藤のご主人が、おもかげ、と命名したその興を知りたくなった。なんとなれば「面影」とは、前述の松岡正剛さんが、日本を考える上で、大事にされている考え方であるから。
暁斎の絵が引出させた言葉なのかしら。

吉坊「しかしこの空間。常識がひっくり返る、と言いますか、絵というものはこの様にして観る、というのがひっくり返されたような思いが致します。
色んな見方は、色んな性格にも依ります。
ソソッカシイことを、粗忽と言いますが……」

と、粗忽長屋へ。仰有っていた、不条理な噺。
「生まれる時は別々でも、死ぬ時は別々の仲なんや」
「当たり前や」
「そや。当たり前の仲だんがな!」
の迫力。
「死骸を取られる前に、急いでいかなアカンがな」
「それで無うても、町内の笑いもん」
の、ミョーな常識。
そういや、吉坊さんの粗忽長屋、初めて聴いた。何とか言い含めてしまいたい、この会場の空気感も含めて、という気迫を感じた。

一席終わり、次はどうしましょうか、とウロウロ。やがて、二階から、声がする。さっきの瓢箪の掛け軸あたりから。エライ高い高座やなぁ。天井見上げて聴く、珍しい光景。

「折角の京都ですので、春の京都のお話を聴いて頂きましょうか」
と、愛宕山へ。
先日の『落語ディーパー!』番組HPの、動画でも拝見したばかり。
番組のトークでも、枝雀、志ん朝の映像を見て、志ん朝のしぐさの格好良さ、そして、枝雀のしぐさに就いて、共演者と一くさりあった。

柳家わさび「枝雀師匠の山登る動きは、ピカソだな、て。リアリティーを越えた上に、ここだけ表現しとけば解るだろう、という極限」

吉坊「感情が着いてくるしぐさは、思わずやってしまってる、予定と違うことを、自分でやってる時がある。(枝雀師匠も)気が上がり過ぎて」
『落語ディーパー!』(2020年3月16日放送回)より

そう。しぐさが重要。が、声はすれども姿は見えず。吉坊さんの、どちらかというと志ん朝派のきれいな動きが、見られない。
芸術にある利と毒、暁斎の気、趣向の毒に飲まれてしまわれた、と思った。お婆んの再登場シーンとか、見たかった。

いや。でもこれは、「小判を放る旦さん」と「暁斎の真筆をカーテンみたいに吊るす」の、やや毒気の強い趣向を二つなら並べて、競わせて見せたのかも知れない。酔狂。見たな、見たな。

「京都人の血がさせません」が大ウケだったのが印象的。京都やから。
あと落語ディーパー版には無かった、暫く動かぬ一八を見ての、旦さんの「手ェ掛けたんは、お前やぞ」が大ウケ。
キツメの言葉の面白さ。毒を以て毒を制した。夜八時十分、中入り。

10分間の休憩の後、今度は烏の間に座を占められ、
「一席、お古いお噂を聴いて頂きます」
番頭さん、ちょっと今手空きかえ、と質屋蔵へ。ちくま文庫の『桂米朝コレクション』、奇想天外編に収められている。
客席も、落語を聴く雰囲気が出来上がっていた。この、異様な空間でも、落語を聴く雰囲気が。
質屋蔵。掛け軸も、商家も、化け物も出てくる、この一夜に相応しい。しかも、結構な大きい噺。愛宕山に続けて聴けて、ありがたい。
帯のくだりをじっくり聴き、熊五郎で大いに笑う。拍手しながら、落語はやっぱり強いなぁ、エエなぁ、としみじみ。

落語会終わり、ない藤さんのご挨拶、
「暁斎は幕末から明治の人。この町屋も、同じ頃に建てられました。
時代が合うと、空気感も合うもので、不思議な感じです、私はここで生まれましたが、初めて来たみたいな感じがしました。

23日まで展示しておりますので、またお時間ございましたら、是非お越し下さい」
加納さんも同じように頭下げられ、夜九時五分、『おもかげ落語会』終演。

面影を追うことは実体を追うことより本質的なものにアプローチできるのではないか、ということなんです。
松岡正剛『連塾 方法日本Ⅰ 神仏たちの秘密』(2008年、春秋社)

近くで観たり、下から聴いたり、遠くで感じたり……の落語会だった。ワライはハライ。

開演前に撮ったもの。まさかこの中に……である。で、あるのが、京都。

山笑ふ鬼のみやげや悪の花

同じく京都の町衆の家に生まれた、杉本秀太郎の句。
記録魔として、この得難き一夜を記す。お招きに預り、ありがとうございました。

附。
その夜の吉坊さんのツイッター。

マトモ、かなぁ。こと、芸への探究心(褒めてます)。

桂吉坊さんの近近のご予定は、こちらを。早く、芸事で気分良く笑ったり、芸事に気前良く払ったりしたい。