資本論に挑戦してみたい   その1

「資本論」はマルクスの遺作である。未完でもあり、エンゲルスの手によってまとめられた。

現在、マルクス主義は凋落の一途で、壮大な共産主義国家の試みは膨大な犠牲者を生み出し終焉した。

しかし、マルクスの著作から読み取るべきモノは共産主義だけではない。

イエスがキリスト教徒ではないのと同様マルクスはマルクス主義者ではない。

過日、マルクスが現在よりも読まれていた時代においてさへ「資本論」を読んだ人がどれほどいたのかは想像以上に少なかったのではないだろうか。

「資本論」はそのタイトルの通り資本とは何かを探求した著作である。

資本の正体を見極めることが主題である。従って「資本論」を読み込んでも反資本主義のアジテーションなどは見つからない。

むしろ、これから起業を考えている人などにどうすれ資本が増殖し「金儲け」が出来るのかを啓蒙する著書として読まれてもおかしくない内容になっている。

「資本論」は「価値論」から始まる。商品はなぜ価値を持つのか。という問いから始まり貨幣の登場までの詳細な分析が行われる。

横暴な資本家がどのように無垢な労働者を酷使し懐を暖めるのか。そして忍耐強く我慢を重ねた労働者がどのように反旗を翻し資本家を倒すのか。

そのような、読者のロマンチックな欲望を満足させる闘争の物語が描かれるわけでもない。

それどころか、この長大な「資本論」という書物は冒頭の「価値論」が最も難解でありそのために読み手の情熱を裏切るかのように退屈さをもたらし、読書の継続を断念させる効果を発揮する。

それはまるで「価値論」を理解できない者には「資本論」を読み続ける資格はないとマルクス仕掛けた意地の悪い関門のようである。

「資本論」を読了するための裏技として「価値論」を飛ばして、最後に「価値論」を読むことを薦める賢者もいる。

さて、私はその「資本論」を読了することに挑戦をしたいと思っている。

我ながら無謀な試みだと思う。

そもそも、「資本論」を読了する意義はあるのか。単に長大な著書を読み終えたという自己満足があるだけではないのか。

この挑戦の本当の目的は「価値論」を理解したいという願望である。

何をもって理解したと言えるのか。

専門的な知識はない。語学力もない。読解力も相当あやしい。

期限を設けなければならない理由もない。

挑戦が継続していれば中間報告はするかもしれない。

そもそも手元に「資本論」はないので購入から始めなければならない。

参考書的な本も必要だろう。
その2に続く