触発されて

どんな意識的な行為も自然過程に過ぎないのではとの疑念は書くことにおいていっそう明確になる。
私の思考は日本語によって規定されているのでいくら自分が主体的に語っていてもその主体たるものがそもそも日本語によって成り立っているならば考えているのは言語自体であり私の思考を日本国によって表現しているというのは明らかな矛盾である。
自由な主体なるものが作られたものとしてしか想定できないのだからそこから紡ぎ出せるのは既成の言語でしかあり得ない。 

おそらく近代に出会うまでの作者は物語の定型に自覚的でありむしろ定型にそった物語を作品化することに重きをおいていたはずである。そこには作者という概念は希薄であったし戯作者などは特権としての作者というより伝統芸能として「作品」が作者に先行していた。

作者は近代において登場しフーコーに先行して作者の消滅を実現してしまった。
近代文学は日本語においては作者の作家性を「私小説」の特権的な位置付けにまで先鋭化させなければ存在できないほど曖昧なものであった。
書き手の匿名性と「顕名性」もしくは著作権の問題にしてもオリジナルなモノに対する対応が極端に別れるのも模倣に対する独特な立ち位置による。

小説でも詩でも我々が言葉を発するときの「居心地の悪さ」を捉える鋭敏さを自己に強いることなく言葉を記すことは自己の「固有性」を失うことに直結する。