中上健次論(0-2)
○「キャラ」とはなんだろうか。
文学にとって「キャラ」とはなんだろうか。
それとも文学作品を論じる際に「キャラ」という単語を用いるのは行儀の悪いふるまいだろうか。
しかも、「キャラ」という単語は普段の会話でも当たり前に遣われているし遣ってもいるが「キャラ」と「キャラクター」の区別さへ意識しないし考えることもない。
人口に膾炙する頃には新しい言葉は「強度」も弱くなる。強いままで日常世界に流通することはないから「多数派の微笑」に飲み込まれるのが世の常でである。
「キャラ設定」という言い方には利便性を理解できるし、なんなら常時実装してもいるのでその分余計に微妙な苛立ちを感じてしまう。
「キャラ設定」の対義語に「ありのままの私」が鎮座していると想定してしまう自分に羞恥心を喚起させられるのが自己嫌悪の出処のような気がする。
中上の小説内の「固有名」は作品を越境して出現するが作品ごとに視点や時間的な前後関係に差があるので性格や役割が微妙に異なっているのだが「固有名」により読者にも同一人物として認識ができる。
「スピンオフ」や「転生物」はマンガや映画、ドラマのように視覚優位の媒介には有効な方法だと思うが、小説の場合はどうだろうか。
中上もバフチンの「ポリフォニー」や「コーラス」「アリア」など音楽の比喩で次作への抱負を語っていたりする。特に『地の果て至上の時』執筆中に複数の視点から群像劇を文体においても完成させたいと意気込みを語っていた。
『地の果て至上の時』の文体と『枯木灘』の文体の違いは明らかであって、当然に『枯木灘』の文学史的な優位性は確定済みになっている。
『枯木灘』の後に中上初のルポとなる『紀州』の連載が始まる。
私は『枯木灘』と『地の果て至上の時』の文体のあからさまな変容が「路地」の消滅によるのは当然としてもトドメの一撃は連載の取材にあるようだ。
髙山文彦著『エレクトラ』を読むと連載が中断される寸前だったことが分かる。
『紀州』の「伊勢」に於いて中上が「書き言葉」の圧倒的な豊饒さに畏怖を抱く。
「おれは負けた」と言ったことが書かれている。
小説家が言葉を武器にして戦うのだとしたら、この鉄壁の積み上げられた言葉に太刀打ちできる者などいるのだろうか。