神と人間の多重構造

死にたいが死ぬ勇気が無い。

というよりも、生きるという行為を

継続することに対してどうしても

鬱屈してしまう。そういう状態が

僕をずっと支配している。



運命愛を用いれば、

神を用いれば、

この苦痛と試練を与えることによって

神は僕をどう導きたいのだろう?という

解釈と行動を起こせるのだろうが、




今の僕にその世界を選択できるだけの

HPと勇気が亡くなってしまったのかもしれない。

僕は自分で言うのも何だが、4年間は

超人であり続けただろう自負が割とある。

まぁ、それも見たくないものをみずに 

みたいところだけ見て、立ちたい土俵に

だけ経ってきた結果なだけなのかもしれないが、、、




もしこれが試練であったならば、このシレンは

いつに実りを得られるのだろうか。ヨーガ的にいえば

結果を手放し神に委ねることが正しいのか、、、。




あーなんだこれ。神とつながることで幸せを

感じられるのであれば。それは希望だろう。

とにかく実践してみようとは思う。




ただ、生まれた意味が「幸せになるため」というのは

なんとも自己都合な解釈であるように思える。

ドラクエの主人公が生まれた意味はなにか?と

言われれば、それは彼らがその世界で幸せになるため

であるのだろうか?いや、そうではないはずだ。

幸せであろうが、なかろうが、神である製作者や

プレイヤーが面白いと認識してプレイされ続けることを

見たすための手段であれば、OK。逆にどんなに

彼らが幸福になろうが、プレイされなければ

価値がないのではないだろうか。その瞬間に

その世界は見放されていく。であれば、




 僕たちの世界、そして僕が生きている理由は

神のためというのはやはり間違いはないだろう。

それが宗教であろうが、別に構わない。であれば、

神を楽しませる人、神が見ていたいと感じる対象こそが

生きている価値があるのかもしれない。




なのであれば、ヨーガ的な解釈や世界観は正しいのでは

無いだろうか?というのが今の僕の感じたことである。

ただ、逆に言えば、僕らがどう生きようが

僕らにとっては何の変化も意味もないのかもしれない。