喪失

生きるのがしんどい。



そう感じるようになって1ヶ月が、いや。

その感覚をごまかし始めてから4年がたった。

そして今、僕は同じ感覚に

引きずり込まれ、支配されている。



生まれた意味はなんだろうか。

行きている意味はなんだろうか。

自分に価値があるのだろうか。



問が巡っては、無いと

結論づけるのに時間は要さず、

その解に涙を浮かべながら

なんとか、どうにかならないかと

「人生 意味」「自殺志願者 希望」と

同じような感覚から回復した

希望を探しては、肩を落とす。



この反復を毎日繰り返して

まぁ、どうせ、いつだって死ねるし。と

勇気の出ないくせに、いつだって死ねるという

選択肢を持って、逃げ場を自分で創る。




逃げ場が無いように感じるが故に

そうさせてしまうのだろうか。

死ぬことも選択できる中で

今は、生きるということを選択して

生きる意味を見出すという行為。




本当は生きたい、また情熱を燃やして

目を輝かせて、そして周りを笑顔にして

生きたいと思っているくせに。そして

それに気づいているくせに、なぜか。

なぜか。なぜか、、、。




そう、思えない。

なぜだ。なんでこう涙が出る。

なぜだ。なぜこう人生が難しい。

なぜだ。なぜ普通に生きるということが

僕にはとても難しい。いつからだ。

いつから僕はこんなになってしまったのだろう。




誰からも必要とされず、評価される軸から

自らはみ出してくせに。本当は誰かからの

評価を一番に求めていたのだろう。

何者でも無い僕はなにかになりたかったのだろう。

そして、その何者でもない僕が

命を燃やしている間に「何者か」に

なっているような後輩や同期、

なんとなく幸せそうに見える姿を

想像しては、時分と比べ肩を落とす。



あぁ。なんたる無意味な思考の繰り返しだろうか。

誰かのため。何かのため。世のため。人のため。

これらの言葉と信念だったもので塗り固めた僕の

思考は行き場をついに失った。




近代資本主義の追求による生物、動物的な価値の最適化が

されていく世界の中で、見えもしない、証明もできもしない

精神的な、人間としての豊かさを目指し続けた。しかし、

それは誰にも「価値」として認識されなければ、

どうやって実現するかすらもわからない。



逆に言えば、どうやって実現するか、そして価値として

認識される方法の2つが満たされれば僕のこの鬱屈とした

支配から抜け出せるのだろうか。そうだったら良いな。




人生は苦でしかない。これらの主張に対して

僕はどうしても受け入れ、超人になることが

今はできそうにない。末人として超人に憧れながら

永劫回帰に収束されてしまう。