オータム(ハスノハ)

随筆のようなものをしたためる場所 ただの16歳。

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最近の記事

サブカルチャーが恋愛を置き換えると

恋愛ができることを幸福の至上に置いている価値観は既に過去のものになりつつある。 恋愛強者こそ人生の勝ち組であり、非モテは寂しく惨めに死んでいくという時代ではなくなったのだ。 その時、サブカルチャーは人間を恋愛から引き離すのでないかと考える。 これは決して、○○は俺の嫁、というようなものに限った話ではない。 人付き合いを面倒くさいと思ったり、現実に他人に興味関心のない人間にとって、人間に対する好きという感情の消費先がサブカルチャーになるのではないだろうか。 すると、そういった

    • 気に入らないなら無視をしろ。

      人々は何故か気に入らないものを見つけると攻撃したがるものだ。 中傷、デマ、圧力etc…これらを用いて完膚なきまでに叩きのめそうとする。 だが、そんな事をする暇があるのならばもっと有意義なことができる筈である。 何故、自分が気に入らないだけの事に言い訳ばかりつらつらと言って皆が問題にしているであるとか騒ぎ立てて、自らを気に入らないものとの対決の場に置き、ストレスの中に生きようとするのであろうか。 気に入らないのであれば簡単な事で、無視をすれば良いのである。 「私はお前

      • 人々は言論の着地点を互いの進化に置くべきだ。

        人と人が分かり合えない、それはお互いの思想が相容れないから全否定の応酬を行うために起こることが多い。 しかし、そんな不毛な言い争いに意味は無い。 言論は相手を攻撃するためのものでは無いのだから、言論が本来持つ意味を考える必要がある。 言論とは基本、相互の情報交換である。 その情報交換の中で新たな視点・考え・価値観に触れ、自分の考えをアップデートする。 これが言論の価値である。 言論はお互いを進化させるための行いであるべきである。

        • 「肥大化した被害者意識」に気を付けろ

          被害を受けたから同じことをしていいと言うのは、被害の再生産であり、ループを生み出す。 例えば、いじめをしていたからいじめっ子をいじめていいと言うのは肥大化した被害者意識によるいじめの再生産である。 近年では「上級国民」というわかりやすい言葉に踊らされたルサンチマンの蒙昧な人間がしきりに自分が被害を受けたわけでもないのに社会的攻撃を加えていた。 人が人を裁くのは法治国家では法律(→司法)によってのみ行われるべきで、このような感情論による私刑は人間としての理性の放棄であり、

        サブカルチャーが恋愛を置き換えると

          右翼・左翼といった表現は言葉の原義を脱出した

          右翼と左翼、右は現状維持、保守。 左は改革、解放。 このように、政治的視点を左右で表す場合こう言った意味を持つ。 しかし、今どきそんな単純なものさしで政治は測れない。 政治における左右は既に言葉の原義を脱出している。 しかし、これらの言葉を現状に合わせて再定義するのももはや不可能である。 もはや政治的立場の左右に惑わされてはいけない。 なぜなら既にその言葉は抜け殻であるからである。

          右翼・左翼といった表現は言葉の原義を脱出した

          被差別意識の利用

          アメリカではよく、人種差別がどうとか、そう言う話をよく聞く。 もちろん、人種差別とはならぬ事である。 肌の色で人に差別を行うなど誰が許そうか。 しかし、黒人その他有色人種が被差別人種という意識は、被差別人種を保護すべきという意識を生み出す。 それが行き過ぎれば、白人への逆差別が生まれる。 被差別人種への同情が白人への攻撃を促すのだ。 このように、物事の本質を見失い、被差別意識が暴走し、手段と目的が入れ替わった事例というのは最近にもあった。 しかも日本を対象にして

          被差別意識の利用

          宗教と科学の関係

          宗教と科学は、それぞれ相容れない物だと思う人は多い。 しかし、そのどちらもが、この世界に説明を付けようとしている物だと考えれば、むしろ相容れないというよりは、親戚関係のライバルといった物であるとも考えられる。 勘違いする人も多いが、世界が科学に則っている訳ではなく、世界に則って起きる出来事に説明を付けようとしているのが科学である。 これはまさに宗教と同じ事だ。 宗教は一つの科学であり、科学は一つの宗教というわけだ。 電気などのものも、宗教からすれば「神通力」みたいな

          宗教と科学の関係

          中立的な視点

          政治的に未熟な人というか、まだ自分の意見に芯がない人は政治を評価する上で、自分と近しい意見を持っている(と思っている)政治的インフルエンサーに流されて付和雷同という状況に陥り、ネトウヨやら、パヨクと呼ばれるような状態になることが多い。 特に若くして政治に興味を持った殆どの人々は(特に、インターネットが大衆化した以後)ネトウヨやパヨクと後に自分でも言えるような状態を経験したことがあるだろう。 そこから脱却出来なかったのが、ツイッターに大量に生息するネトウヨおじさんやパヨクお